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[コメント] 2017-01-09 09:22

No.61 ふるさとの宝物 第161回 籠を背負う土偶(風韻堂コレクション)

ふるさとの宝物 第161回 籠を背負う土偶(風韻堂コレクション)

この土偶を一目見て異様な印象を受ける人も多いのではないだろうか。眉がない大きな目、ぽっかりあいた口。顔の表現があるから土偶だとわかるのだが、顔は大きな筒状の胴部に張り付いている。腕もやはり筒状の胴部に貼り付けられ、後ろに回されている。
縄文の土偶には様々なポースをとっている事例がある。腕を腹や胸におく、腕を後ろに回す、座った姿勢をとる、などである。しばしば、出産の様子を表したものがあることから、類似の姿勢をとるものを含めて「出産土偶」というカテゴリーでとらえようとする意見がある。
この土偶は足が省略された表現なので、足部だけを表現したのか、座った姿を表現したのか判断しがたいが、腕を後ろに回しているので、出産土偶の範疇に含める意見がある。一方では、出産とは関係なく、籠を背負った姿を表現したものとする意見もある。いずれにしても、通常の土偶より縄文人の思いを強く感じさせる資料である。

投稿者:学芸課 中村 哲也

[コメント] 2017-01-13 10:33

No.62 ふるさとの宝物 第163回 ラクスマン一行の図

ふるさとの宝物 第163回 ラクスマン一行の図

 今回ご紹介する史料は弘前藩士・横山武薫が描いた露西亜使節ラクスマン一行の図である。一番左側に描かれたのがラクスマンであり、彼は漂流民である大黒屋光太夫を伴い、通商を求め一七九二年に根室に来航した。中央では松平定信が寛政の改革を始めた頃であり、ペリーが来航する約六〇年前の事件である。
 北方の国際情勢は緊張し、それ以後、弘前・盛岡両藩を主体として蝦夷地警備が行われ、多いときには千人余りの人員が派遣されました。横山武薫もその一人であり、ラクスマンの様子を描いたものと考えられる。絵というのは描き手の主観が現れるが、横山は初めて見るロシア人の鼻の高さに驚いたのだろう。四人とも鼻がとても高く描かれている。
さて、我々日本人は見慣れたせいか、あまり違和感はないが、外国人から見たらちょんまげはかなり異質な髪型に見えたことだろう。せっかく漂流民を送り届けてきたにもかかわらず、感謝もされず通商も拒否され、しかもちょんまげ。ラクスマンは「なんてへんてこな国なんだ!これは異な国!」と思ったかもしれない。おわかりいただけただろうか。根室で異(1)な(7)国(92年)ラクスマン。頑張れ受験生。
(東奥日報2016年9月15日朝刊掲載)

投稿者:学芸課 伊藤 啓祐

[コメント] 2017-01-13 10:34

No.63 ふるさとの宝物 第164回 三之助とタタリーノフ

ふるさとの宝物 第164回 三之助とタタリーノフ

県立郷土館2F歴史展示室では、青森からロシアへ渡った漂流民・三之助の物語を通して、青森と北方世界との交流を映像資料で紹介している。
延享元年(1744)11月、三之助らが乗った船は、下北半島の佐井村を出港し大畑で大豆や昆布を積んで江戸に向かった。途中暴風雨で舵と帆柱を失い約半年もの間漂流した後、千島列島のオンネコタン島に辿り着く。そこでロシア人に保護され、その後三之助らはイルクーツクで暮らすことになった。三之助はイワン・タタリーノフと改名し、日本語を教える仕事に就く。ロシアで結婚し、子どももできた。その子ども、アンドレー・タタリーノフは「露日レキシコン」(露日辞典)を編集する。その中の記述がおもいしろい。【ножик(露)ナイフ】⇔【(日)まきり】、【лед(露)氷】⇔【(日)しか】、【ленивый(露)怠惰な】⇔【(日)からやみ】、日本語訳が訛っているのである。露日レキシコンは、その後ロシアが日本と外交交渉する際、通訳の手引書となるのだが江戸幕府の人を多少なりとも悩ませたに違いない。
さて、次期学習指導要領に向け中央教育審議会は、小学校中学年から外国語活動を行い高学年では教科型の学習とする方針を示している。昔の人がどのように外国人とコミュニケーションを図ってきたのか、歴史と関連させながらの外国語学習は、‘活動だけ‘に陥らない学びの多い学習の一つになると言えないだろうか。
(東奥日報2016年9月22日朝刊)

投稿者:学芸課 福士 道太

[コメント] 2017-01-13 10:36

No.65 ふるさとの宝物 第166回 ウトウ

ふるさとの宝物 第166回 ウトウ

 ウトウは,チドリ目ウミスズメ科に属する海鳥の一種である.
 体長は約38センチメートルと中型の海鳥で,夏期繁殖期には顔に2条の白色の飾毛が伸び,くちばしの付け根に三角型の突起が、特徴的に見られる.この突起の役割は定かで無いが,南部地方では小魚を捕獲するときの標準器と思われていて,このことから「ケントカモ」と方言で呼ばれている.津軽では鼻の特異的な形態から「ハナドリ」と方言で言われている.
 ウトウは北太平洋に広く分布するが,国内では北日本を中心に生息し,青森県でも津軽海峡や陸奥湾などで一年中見られる.
 ウトウは,集団で行動することが知られており,脚のヒレと翼を上手に使い,潜水することが得意で,群れで小魚を捕食すると言われている.
 繁殖期には,主に離島の崖の上に穴を掘って巣にし,卵を両親交代で温める.育児期になると親は早朝に一斉に海に飛び出し,外敵が活動しない夕方暗くなってから小魚を加えて巣に帰ってくる.
 ウトウは漢字で「善知鳥」とも書かれる.現在の青森市は,古くは善知鳥村と呼ばれていた.戦国時代に外ヶ浜は弘前藩の領地となり,津軽藩の海運発展のため一六二四年に,
善知鳥村に港を開港し,名前を青森村に改めた.その数年後,町として整備され青森町となる.何故善知鳥村と呼ばれていたかは確かで無いが,いろいろな説や伝説が語り継がれている.
 県立郷土館の常設展示観覧時には,自然展示室のウトウのジオラマを是非とも見ていただきたい.

*写真 自然展示室ジオラマ「ウトウ」

(東奥日報2016年10月6日朝刊)

投稿者:学芸課 山内 智

[コメント] 2017-01-19 08:08

No.66 ふるさとの宝物 第167回 枡(ます)

ふるさとの宝物 第167回 枡(ます)

 収穫した穀物類の計量には枡が使われた。写真の枡は五戸地方で使用されたもので、昭和47年に寄贈された。側板に三升入と刻まれていて、枡に実を入れ、口の上端に斜めに渡した棒を基準にして平らに均すと、ちょうど三升分ということである。
 底板の外側には寸法が刻まれていて、枡の規格を記したものと思われ、板の接合部や口の縁は鉄板で補強している。この枡に実を入れたとき、農家の1年の苦労も加わって、かなりの重さが掛かったのではないだろうか。物そのものが税となり現金となった時代には、枡で計ることは金勘定そのもので、枡は大事に扱われたようである。
 さて、実りの秋である。稲作農家では稲の収穫を祝い、田の神に感謝する行事が行われる。東北地方では旧暦9月の9の日ごとに行われることが多く、三九日(ミクニチ)などと呼ばれている。津軽では9月29日前後に「秋餅を回す」といって、新米でついた餅を親戚や寺、世話になっている人に贈答した。日ごろのお付き合いへの感謝の気持ちからであろうが、収穫の誇らしさも含んでいたものと思う。

投稿者:学芸課長 古川 実


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