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[コメント] 2017-11-06 15:57

No.123 ふるさとの物語 第26回 「平川の渡し」~地名に往時の名残~

ふるさとの物語 第26回 「平川の渡し」~地名に往時の名残~

藩政時代、弘前藩の重要幹線であった羽州街道は、藤崎の入り口で平川にぶつかり現在の平川橋(国道7号)のやや下流側に橋と大きな「渡し」があった。「渡し」は比較的流れが穏やかで浅い場所に設けられ、川を歩いて渡る「徒(かち)渡し」や「渡し舟」、そして物流が盛んになるにつれ「橋」が並行して設置されるようになった。当時の平川橋は出水時、杭を残して取り外すという「仮橋」であった。1802(亨和2)年に藤崎を通った伊能忠敬は「沿海日記」に、「藤崎川あり 藤崎村入口六十八間の橋なり…」と記している。また、藤崎を数回訪れている菅江真澄の「錦木」にある図絵「藤崎川橋上眺望」には、欄干と橋の中間に待避所を備えた橋が描かれている。これらのことから橋は比較的大きく立派なつくりであったことやこの地域では平川を藤崎川と呼んでいたことなどがうかがえる。
今では「渡し」の繁華な面影を見ることはできないが、付近の地名「舟場」が往時の名残をとどめている。

写真:菅江真澄の著書「錦木」にある図絵「藤崎川橋上眺望」(大館市立栗盛記念図書館蔵)
※この記事は2017年9月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太

[コメント] 2017-11-06 15:55

No.122 ふるさとの物語 第25回 「オオバタグルミ」~表面に深く硬いシワ~

ふるさとの物語 第25回 「オオバタグルミ」~表面に深く硬いシワ~

オオバタグルミは、野辺地町一ノ渡地区の野辺地川河床を構成する地層から産出するクルミの殻化石。大型から小型、細長いタイプから丸いタイプまで形態はさまざまあるが、表面に深いシワが刻まれるという特徴をもつ。この深く硬いシワは、ネズミやリスに食べられないようにする役割を果たしていたようである。
日本各地で産出する化石の研究から、オオバタグルミの殻はおよそ110万年前に急速に小型化、表面の平滑化が起こり、現生種のオニグルミへ変化したと考えられている。殻表面が平滑になったことでネズミやリスに食べられるようになり、穴のあいたオニグルミの殻化石もよく見つかる。
リスはクルミを運んで土の中に埋め、あとから掘り出して食べる習性がある。見つけられなかったクルミは芽を出して成長することができ、分布を広げることになる。オオバタグルミからオニグルミへの変化は、分布を広げる方法の変化だったという説もある。

写真:大型で細長いタイプのオオバタグルミ殻化石(高さ5.6cm)
※この記事は2017年9月21日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 島口 天

[コメント] 2017-09-25 11:06

No.121 ふるさとの物語 第24回 「小川原湖底の水中遺跡」~水没原因 大きな謎~

ふるさとの物語 第24回 「小川原湖底の水中遺跡」~水没原因 大きな謎~

高瀬川の河口に形成された小川原湖では、シジミ漁の際に湖底から遺物が採取されることがあり、これまでに4カ所が水中遺跡として登録されている。水中遺跡とは、何らかの事情で水底に沈んだ遺跡のことである。
近年、登録された場所以外にも遺物が分布することが指摘されており、水中遺跡の可能性がある場所は小川原湖の沿岸各所で8カ所が知られている。
写真は、水深0・5㍍ほどの東北町田ノ沢沖で採取された、縄文時代早期から前期(約7千年前)の土器と石器である。表面はほとんど摩滅しておらず、川の流れなどで運ばれたものではない。小川原湖底には、何千年も昔の集落が残されているのだ。
縄文時代には、約7千年前をピークとする海水面の上昇(縄文海進)が知られているが、小川原湖底で発見される遺物は海進終了後の縄文時代後期に作られたものも多いため、縄文海進によって遺跡が水没したわけではない。
湖岸の陸地が水底に引き込まれるような地滑りや地盤沈下なども知られておらず、遺跡がいつ、どのように湖底に沈んだのか大きな謎である。いまだ行われていない発掘調査を含め、研究の進展を期待したい。

写真:東北町田ノ沢沖の小川原湖で採取された縄文時代の遺物(右下のスケールは5cm)
※この記事は2017年9月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋

[コメント] 2017-09-25 11:05

No.120 ふるさとの物語 第23回 「古十三湖」~丘陵近くまで広がる~

ふるさとの物語 第23回 「古十三湖」~丘陵近くまで広がる~

筆者が小学3年生の時、郷土の歴史について「縄文時代、私たちが住んでいる森田村(現つがる市)まで海は広がっていた、津軽平野は大きな湖であった。その証拠に津軽平野に接する丘陵には十数カ所もの貝塚が見つかっている。」と聞いた際は、驚きとともに信じがたいことであった。
この話が確信となったのは、大学生であった1991年、県立郷土館が行った田小屋野貝塚(現つがる市)の発掘調査で、縄文前期(約6500年前)のヤマトシジミ主体の貝層を目にした時である。
いわゆる「縄文海進」の際、岩木川の河口は大きく広がり、「古十三湖」の汽水域は丘陵近くまで広がっていた。そして丘陵上には汽水・淡水域の貝類を含む貝塚が点在していたのである。
田小屋野貝塚からは、つがる市の近年の調査にて、縄文前期の成人女性の人骨一体も発見されている。
10月21日から、つがる市縄文住居展示資料館カルコにて当貝塚の企画展が開催される。

写真:田小屋野貝塚平成3年調査時 遠方に津軽平野が望める
※この記事は2017年9月 7日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2017-09-25 11:01

No.119 ふるさとの物語 第22回 「善光寺信仰」~岩木川通じて広がる~

ふるさとの物語 第22回 「善光寺信仰」~岩木川通じて広がる~

津軽平野を北流し十三湖から日本海へ注ぐ岩木川は、かつて内陸水運の要であり、様々な地方から人や文物が運ばれてきたという。信濃の善光寺信仰もそのひとつである。
岩木川沿いには善光寺信仰の痕跡が少なくない。例えば北津軽群鶴田町菖蒲川集落には、慶応四年(1868)に長兵衛が建立した善光寺の百万遍塚がある。近くの五所川原市川山では、昔、善光寺に由来する百万遍の文言を唱えていたという。さらに下流の中泊町大沢内観音堂には、善光寺講中による位牌と善光寺形式の一光三尊仏(写真参照)が祀られている。
流域の五所川原市藻川集落の旧家にも変わった伝承がある。数代前の幕末の先祖で、シャーマンだったゴン助が、ある夜に体調が悪くなり、ムカムカとして目の前の岩木川へ入っていくと、水中から巨石を抱いて上がってきた。するとその石は善光寺様であり、代々、家のなかでお祀りするようになったという。この話の真偽は定かではないが、岩木川を通じて新しい信仰が地域へ入ってくる様子を象徴的に示す伝承なのではないだろうか。

写真:善光寺形式の一光三尊仏の掛け図(当館蔵)
※この記事は2017年8月31日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山隆秀


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