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[コメント] 2018-10-25 10:20

No.172 ふるさとの物語 第75回 コケの「花」? ~胞子入れか造精子器か~

ふるさとの物語 第75回 コケの「花」? ~胞子入れか造精子器か~

 庭に生えて欲しいコケといえば、スギゴケは必ず登場する。すっくと立ち上がった姿が格好いい、と思われている。確かにスギゴケは、二つあるコケ植物の大きなグループのうち「蘚類」の旗頭であり、いわばスター的存在である。もう一方のグループは「苔類」で、代表はゼニゴケ、見た目で、どうも分が悪い。
 コケ植物は二つ合わせて蘚苔類ともいい、そう呼ぶ人も多い。何か響きがカッコイイと思いませんか。
 さて、スギゴケと一口に言っても、本来のスギゴケ以外にも沢山の種類があって、まず、コケ庭で高い人気を誇るのは大型のウマスギゴケ(写真①)であろう。日当たりが良い、湿ったところに大きな群落を作ったりするが、よく似たオオスギゴケと並んでコケ庭の代表選手である。
 また、私たちに最も身近なのはコスギゴケ(写真②)だろう。空き地や庭の隅で見かけることが多いコケで、名前のように全体が小型である。
 ところで、コケ植物は隠花植物の仲間であり、胞子で繁殖するから花は咲かない。しかし、どういうわけか俳句の世界では「苔の花」が夏の季語として登場する。例えば、
 苔の花門に車の跡もなし 正岡子規
といった具合に、子規も「苔の花」を沢山読んだ。わび、さびの境涯にぴったりと来たのかも知れない。
 おそらく、苔の花とは、胞子の入れ物である蒴(写真③)のことだと思っているが、それよりもっと花のように見える構造物に気がついた。写真④は、コスギゴケの雄株の雄花盤である。この中に精子を作る造精器があるのだが、見かけはまるで花のようではないか、と思う。 

※写真:①ウマスギゴケ ②コスギゴケ ③蒴がついたスギゴケ ④雄花盤がついたコスギゴケ
※この記事は2018年 9月 6日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 太田正文

[コメント] 2018-10-25 10:19

No.171 ふるさとの物語 第74回 「国重文・石刀」~武器ではなく儀礼の道具~

ふるさとの物語 第74回 「国重文・石刀」~武器ではなく儀礼の道具~

 縄文時代の石器の名称は実際に使う方法から名付けられているが、見た目が似ている物の名から付けられるものもある。
石刀(せきとう)は、字の通り形が日本刀に似ていることに由来する。長いものは片手で持てる長さ40cmほど、柄(つか)と刀身とに分かれ、身の片側縁に稜(りょう)がある。権威の象徴としての威信具、儀礼や信仰・祭祀の道具と考えられている。
前期に現れ、後期末から晩期の北東北・北海道渡島地方に多い。
むつ市(旧大畑町)二枚橋(2)遺跡では約200点もの晩期の石刀が出土している。内反りの刀身に、柄には入組文(いりくみもん)や工字文(こうじもん)などの亀ヶ岡文化の文様が彫刻されている。文様に赤色の付着物が多く、柄部は赤彩されていたことがわかる。
この遺跡からは祭祀に関わる遺物が多数出土しており、1308点が国重要文化財に指定されている。

※写真:二枚橋(2)遺跡出土品の国重文・石刀
(むつ市教育委員会所蔵、青森県教育庁文化財保護課写真提供)
※この記事は2018年8月30日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2018-10-25 10:19

No.170 ふるさとの物語 第73回 お山参詣のカンムリ ~信仰の中に二つの文化~

ふるさとの物語 第73回 お山参詣のカンムリ ~信仰の中に二つの文化~

 お山参詣と呼ばれてきた。それは、昭和59年に「岩木山の登拝行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
写真は、昭和50年代の当館による民俗調査で採集した資料で、お山参詣のときにワラ縄で編んで頭に付けたカンムリ(カブリ)というものである。大正期までよく使われたという。とくに下山後、集落へ帰ってくるときに頭に載せ、五葉松を両手に持ち「イイ山カケダ…」と踊ったそうだ。写真右側のカンムリは、鰺ヶ沢町で採集されたものだが、仏教の宝珠のような形をしている。しかし左側のものは神社の鳥居のかたちをしている。なぜ形が異なるのだろうか。おそらく宝珠型は、近世まで岩木山信仰を統括していた真言宗百澤寺の仏教文化を受け継ぐカンムリであり、鳥居型は、明治初期の神仏分離以後の岩木山神社による祭祀を表したカンムリの違いであり、双方の文化が人々の信仰にも受け継がれてきたことを意味しているのではないだろうか。

写真:お山参詣のカンムリ(近代、当館蔵)
※この記事は2018年 8月23日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山隆秀

[コメント] 2018-10-25 10:18

No.169 ふるさとの物語 第72回 生物学者・畑井新喜司の「石」~研究への熱意浅虫への愛着~

ふるさとの物語 第72回 生物学者・畑井新喜司の「石」~研究への熱意浅虫への愛着~

 前回紹介した東北大学付属浅虫臨海実験所の初代所長、畑井新喜司(はたいしんきし、1876~1963年)が採集した「石」がある。大人の手のひらほどの大きさで、「浅虫臨海実験所 畑井新喜司 昭和二年八月採集」と記されている。
 畑井は、平内町の小学校を卒業後、東奥義塾、東北学院で学び、アメリカに留学して生物学の研究に取り組んだ。大正10年(1921)に帰国、現東北大学の教授に迎えられ、昭和13年まで同実験所の所長をつとめた。若い研究者とともに研究を続けながら、周辺の海で釣りを楽しむ。この石を採集した昭和2年(1927)の夏は、そんな充実した生活を送っていた頃になる。
「一生の最良部分を浅虫に送った私にとっては実験所はなつかしみの深い思い出の場所でありまた学問的生活から見て第二の故郷であります。」(「追想録 浅虫臨海実験所の思い出」同実験所報告 創立30周年記念号 1955年)と語っているように、彼にとって浅虫の海は、幼少期をすごした自らの原点でもあり、さらに日本の近代生物学の普及発展に力を注いだ思い出深い地だった。この石は、彼の生物学への熱意と故郷に対する愛着を秘めた特別な「石」として保管されてきたのである。

※写真:生物学者・畑井新喜司が1927年に採集した石
※この記事は2018年 8月16日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 太田原慶子

[コメント] 2018-10-25 10:16

No.168 ふるさとの物語 第71回 「浅虫・臨海実験所と旧水族館」~たくさんの功績、思い出~

ふるさとの物語 第71回 「浅虫・臨海実験所と旧水族館」~たくさんの功績、思い出~

 写真は、浅虫付近の山から撮影した、東北帝国大学理学部附属臨海実験所の全景である。同大学に設置された生物学科主任教授であった畑井新喜司(はたい・しんきし。1876~1963。現在の平内町出身。)は、実験所建設の計画を進めた。1924(大正13)年、実験所は浅虫の温泉街から1キロ余り北の海岸に開設された。
 浅虫には鉄道駅があり、交通の便が比較的良いこと、生活の便が良いことなどが、実験所の場所として選ばれた主な理由。実験所に接している陸奥湾には、多くの生物が生息しており、数多くの調査・研究が行われた。その研究は、陸奥湾内のホタテの養殖の成功にも貢献している。
 実験所の開設と同時に附属水族館も開館した。水族館は、大学の調査研究を行うほか、一般の人々に様々な海洋生物が生活する様子を公開することにより、それらに対する知識の普及に寄与した。
大正末に作成された観光案内では、水族館を見学する学校の団体が年を追って増加している、と当時の様子を伝えている。遠足・修学旅行の時に、水族館の建物や、その近くに見える裸島などを背にして記念写真を撮影する小学生等の団体も数多くあったようだ。郷土館にもそのような写真が何枚かある。
県営浅虫水族館が83(昭和58)年に開館した翌年春、実験所附属水族館は閉館となった。実験所はその後名称を改め、現在も存続。そして、旧水族館の思い出は、閉館から三十数年たった今でも、人々の思い出の中に残っている。

※写真:絵はがき「(浅虫温泉名所)東北帝国大学臨海実験所全景」
※この記事は2018年8月 9日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 佐藤良宣


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