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ふるさとの物語 第179回 県の魚「ヒラメ」    ~左右からの観察可能~

2020-09-30 14:56

ふるさとの物語 第179回 県の魚「ヒラメ」    ~左右からの観察可能~  ヒラメは、1987年に青森県を代表する魚として県に指定されている。全国的に青森県のヒラメの漁獲量は上位である。「左ヒラメに右カレイ」と言われるように目の付き方に特徴がある。
 写真は、県立郷土館内に展示してあるヒラメ標本である。魚類は展示が難しいため写真のようにアクリル樹脂に封入する方法をとっている。このような保存方法にすることで魚類の全体像を比較的簡単に観察することができる。現在は感染拡大防止のため触れることはできないが、本来は手に持ってあらゆる方向から観察できる素晴らしい展示である。
 写真には目のつき方から左側が写っているが、ヒラメの左側は、海底の砂や岩礁の色に合わせて体色を変化させることができる。一方、ヒラメの右側は白くなっている。これは、下から見たときに太陽の光に紛れるからである。
 テレビや写真で見ることはあっても、実際の姿を目の前にする機会は少ない。この機会にぜひ一度間近でヒラメの実際の姿を見ていただきたい。

※画像:体調44cmのヒラメのアクリル封入標本
※この記事は2020年9月24日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究員 片山卓思


ふるさとの物語 第178回 青森魚市場       ~青森港に面影なく~

2020-09-30 14:55

ふるさとの物語 第178回 青森魚市場       ~青森港に面影なく~  この写真は、旧浪岡町(現青森市)出身の写真家、鎌田清衛(きよえい)氏が昭和30年代初めの青森港安方地区を撮影したものである。遠くには同市東部の東岳を望み、手前の岸壁には木材などの積み荷が並んでいる。右側には冷蔵会社や製粉会社、セメント会社などの倉庫が連なり、その奥には岸壁に斜めの屋根が張り出した青森魚市場の建物も見える。
 青森魚市場は1941(昭和16)年に開設、戦争により一時衰退したが、戦後は北洋漁業の再開により活気を取り戻した。その頃の市場周辺では水産物関係の会社や商店、倉庫が立ち並ぶとともに、魚を入れる木箱の製造工場や製氷施設なども見られた。その後、北洋漁業の規制により、市場そのもののにぎわいも失われていったとされる。
72(同47)年、市郊外の卸町に新たに開設された中央卸売市場内に移転、その後も元の市場は安方卸売場として取引品目や期間を制限した取引が継続されたが、青森港の埋め立て工事により、84(同59)年3月に廃止された。
 埋め立てにより、写真左側の海部分は現在の青い海公園東側の緑地帯となり、倉庫群や魚市場の跡地には青森ベイブリッジが通っていて、かつての面影はまったく残っていない。
 この写真は県立郷土館で開催中の企画展「鎌田清衛写真展『青森の風土と人』」で展示中である。この他にも、青森駅舎から撮影した昔の駅前広場や、双子の赤ん坊が「エンツコ」に入っている写真など、昔懐かしい風景を収めた写真なども紹介している。ぜひ会場に足を運んでご覧いただきたい。

※画像:昭和30年代初めの青森港(鎌田清衛氏撮影)
※この記事は2020年9月17日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究主査 滝本 敦


ふるさとの物語 第177回 豪商「大五」阿波屋   ~淡谷のり子の生家~

2020-09-30 14:54

ふるさとの物語 第177回 豪商「大五」阿波屋   ~淡谷のり子の生家~  ブルースの女王と呼ばれた昭和の大歌手淡谷のり子(1907-1999年)の生家は、現在の青森市本町1丁目付近にあった。淡谷家と青森の縁を結んだのは、「海」だった。
 青森市史(人物編)などによると、淡谷家のルーツは、淡路島にあるという。江戸時代、初代源四郎は、奉公先の船で青森まで来る途中、竜飛沖で遭難。救助された源四郎は、そのまま青森に住み着いて魚を商い「阿波屋」と称した。やがて、阿波屋は呉服を取り扱うようになり、市内屈指の豪商へと成長した。
 明治時代半ば、青森政財界で活躍した淡谷清蔵(1846-1923年)は、源四郎から数えて五代目、妹まつ(のり子の祖母)が弘前藩士族出身の金蔵を婿に迎えて分家したのが「大五」阿波屋である。最盛期の奉公人は30人を超えていたという。のり子は長女として大切に育てられた。
 しかし、1910(明治43)年の青森大火で、運命が一変する。甚大な被害を受けた大五の商売は衰退、家も人手にわたってしまう。のり子は母妹と上京、自立を目指すものの経済的に困窮を極めた。苦しい生活を、のり子は絵のモデルなどで支えながら、本格的な声楽を学ぶ。困難を乗り越え、1929(昭和4)年、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を首席で卒業、彼女は、歌手淡谷のり子としての人生を歩み始めていくのである。

画像: 「大五」のれん(タテヨコ各154㎝/県立郷土館蔵)。風呂敷に仕立て直されているが、のり子の父の弟淡谷悠蔵(1897-1995年、政治家・文学者)が保管していた。
※この記事は2020年9月10日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 太田原慶子


ふるさとの物語 第176回 小川原湖湖沼群     ~半島横断の運河計画も~

2020-09-30 14:53

ふるさとの物語 第176回 小川原湖湖沼群     ~半島横断の運河計画も~  県内最大の面積規模を誇る小川原湖は、かつて海だった海跡湖である。特に縄文海進期(約9,000~7,000年前)には内陸部まで海が入り込み、周辺は大きな湾「古小川原湖」となった。同湖周辺に野口、早稲田、二ッ森など多くの貝塚が分布していることから海の幸が豊富だったことがわかる。
 その後寒冷化が進むと海水面が下がり、浅い部分は陸地となり、太平洋側では、沿岸流によって運ばれた砂が湾をふさいでいった。これが現在の小川原湖の原形となり、その他尾駮(おぶち)沼、鷹架(たかほこ)沼、仏沼など多くの沼も孤立していった。これらを総称して小川原湖湖沼群と呼ぶ。
 さて、同湖沼群のうち、下北半島の幅が最も狭くなる鷹架沼を掘削し陸奥湾と太平洋を水路で直結させるという「むつ運河計画」がかつて存在した。半島を横断し太平洋航路を直接陸奥湾に導くという壮大な構想は、古くは江戸時代からあり、明治、大正、昭和と少なからず議論されてきた。実現していればそれなりの経済効果はあったかもしれない。
 しかし小川原湖湖沼群が、今のように希少生物が多数生息し日本の重要湿地500に指定されることはなかっただろう。

※画像:むつ運河計画の対象となった鷹架沼(六ケ所村)
※この記事は2020年9月3日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任研究主査 福士道太


ふるさとの物語 第175回 縄文時代のホタテ    ~太平洋沿岸に偏る出土~

2020-09-30 14:53

ふるさとの物語 第175回 縄文時代のホタテ    ~太平洋沿岸に偏る出土~  東北町東道ノ上(3)遺跡で発見された約6千年前(縄文時代前期)の貝塚からは、土器や石器、獣の骨に混じって殻の幅が15cmを超える立派なホタテが出土している。外側が焦げているので縄文人も焼ホタテを食べたのかと思いたくなるのだが、内側も焼けているため身を外した後の貝殻が廃棄の際に火にくべられたのだろう。
 県内のホタテ利用は約8千年前(縄文時代早期)にさかのぼり、当館が発掘調査した三沢市山中(2)貝塚などの例がある。『青森県の貝塚』(福田友之著、2012年・北方新社刊)によると、県内で海産貝類が出土した79の縄文遺跡のうち20遺跡でホタテが確認されている。縄文時代のホタテは太平洋沿岸に偏って出土しており、現在のホタテの主産地である陸奥湾に面した遺跡ではむつ市最花(さいばな)貝塚、同万人堂(まんにんどう)貝塚、平内町立石洞穴(たていしどうけつ)が知られるだけである。
 出土量は大変少なく、東道ノ上(3)遺跡では分析された貝殻33,149点中68点、山中(2)貝塚では18,609点中2点である。たくさん出土するシジミやハマグリ、アサリよりも深い場所に棲むホタテを手に入れるのが難しいことは分かるが、それにしても数が少ない。もしかすると縄文人は海岸で殻をむき、貝柱だけをムラに持ち帰ったのではないかという想像が頭をよぎる。

※画像:東北町東道ノ上(3)遺跡の貝層はぎ取り(東北町教育委員会蔵・県立郷土館展示品)
※この記事は2020年8月27日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 岡本 洋