◆あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

4 / 11 ページ ( 16 ~ 20|51件 )

[コメント] 2018-01-11 09:26

No.133 ふるさとの物語 第36回「平内町槻の木(つきのき)遺跡」(平内町)

ふるさとの物語 第36回「平内町槻の木(つきのき)遺跡」(平内町)

写真の資料は、かつて青森北高校考古学研究部が所蔵し、現在は青森県立郷土館にある縄文晩期前半の台付鉢(写真中央、台部欠損、口径11センチ、出土時の高さ9.5センチ)と壷である。壷は縄文が施されているもの(同後列左、高さ16センチ/同後列右、高さ12センチ)、赤色黒色漆塗りの小壷(同前列右、高さ8センチ)、無文のもの(同前列左、高さ5センチ)と変化に富む。
遺跡は小湊川沿いの段丘上に位置する。地名から下槻・小湊遺跡とも呼ばれていた。戦前から知られていた遺跡であり、発掘調査はこれまでに3回(1949、1951、1965年)行われている。
最初の調査は、青森北高校考古学研究部や平内町の町民有志によるもので、その後は慶應大学や平内町が調査を行った。いずれも小規模調査であるが、亀ヶ岡式土器や土偶・装飾品が大量に出土したことで、当時は亀ヶ岡文化期の大きな遺跡として注目されていた。
 しかし、これらの成果はこれまで公開される機会が少なかったため、資料の詳細や遺跡の全体像はよくわかっておらず、今後の研究課題となっている。
出土した資料は、平内町歴史民俗資料館に展示されており、特に大きな注口土器は必見である。

※この記事は2017年12月 7日付の東奥日報朝刊に掲載しました。


投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2017-12-09 14:22

No.132 ふるさとの物語 第35回 「年越し夜の儀礼」~名も姿もなき神拝む~

ふるさとの物語 第35回 「年越し夜の儀礼」~名も姿もなき神拝む~

12月31日の年越しの夜、津軽平野中央を流れる岩木川沿いの家々のなかには、玄関を開けて神々を招き入れ、料理をふるまう旧家がある。
 例えば、岩木川水系の寺沢川が流れる弘前市茂森新町の旧農では、年越しの夜に、当主が玄関を開けて正座し「どうぞお入りください」と姿無き山の神を迎える。この神は床の間までは招き入れず、座敷の隅で二つのお膳を振る舞う。そしてすぐに「足もとを大事にお帰りください」と玄関から外へ帰してしまう。
 同じような儀礼は、つがる市芦沼集落の農家でも伝承されている。毎年、年越しの日に家中の窓や戸を開けて、玄関に灯明と料理を載せたお膳と座布団を用意する。夕方、家族達がそこに正座し、外からやってくる姿も名も無き神を拝む。
このような年の境目に神々を迎える年中行事は、かつて日本各地でも伝承されていた。古い民間信仰を考える上で貴重な習俗である(拙論「旧弘前城下のイエの神々の年越し」)。この他にも青森市内でもかつて行っていた家があるという。県内各地でもしご存じの方がいれば情報をお寄せいただきたい。

写真:年越しの夜、玄関から神を迎える儀礼(つがる市芦沼、2006年、渡辺真路氏撮影)
※この記事は2017年11月30日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山隆秀

[コメント] 2017-12-09 14:21

No.131 ふるさとの物語 第34回 「佃グラウンド」~戦前 市民が野球楽しむ~

ふるさとの物語 第34回 「佃グラウンド」~戦前 市民が野球楽しむ~

戦前から青森市内では、生徒や社会人によるチームが作られ、市内各所で野球の試合が行われていた様子である。
石村辰之助著『第一勧銀 青森支店の歴史』(昭和61〈1986〉年)によると、1923年(大正12年)にはすでに、青森市内銀行職員による親善草野球が、新浜町公会堂近くの空き地で行われていたという。
その翌年、そういう市民や生徒が、野球を楽しむ場所のひとつとして、1924年(大正13)年に佃野球場(佃グラウンド)が開設された。当時、この場所は青森市の南の境界線を越えてすぐの造道村内に位置していた。1926(昭和2)年、この地域は村名が変わり、浜館村となっている。
写真は、かつての青森県立師範学校の関係者から、40年程前、当館に寄贈された写真のうちの1枚である。師範学校は、佃グランドから比較的近い、現在の青森市花園二丁目にあった。この写真を入れた封筒には、「佃グランド」という文字があった。この写真が撮影された年を知る手がかりはないが、おおよそ昭和戦前期のものかと思われる。
写真に写っている、ベンチ前に集まった選手たちのユニフォームを見ると、どうやら、師範学校の生徒たちではないようである。対戦相手だろうか? 残念ながら、寄贈から長期間を経過しているため、撮影された事情等については、十分に確認できなかった。お心当たりの方は、お知らせ頂ければ幸いである。
佃グラウンドは、戦後の地図では見えない。現在、その跡地は住宅地となっており、その南側には、つくだウェザーパークや青森市立佃小学校がある。

※この記事は2017年11月23日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 佐藤良宣

[コメント] 2017-12-09 14:20

No.130 ふるさとの物語 第33回 「青森県句集と今純三」~ふるさとへの思い凝縮~

ふるさとの物語 第33回 「青森県句集と今純三」~ふるさとへの思い凝縮~

戦前に発行された俳句誌の口絵に、今純三(1893~1944年)の小さな銅版画作品を見つけた。木々が生い茂る中、渓流に橋がかかる光景である。
この口絵が掲載されているのは、『青森県句集』(第7集、昭和11年)、青森市出身の俳人高松玉麗(たかまつ ぎょくれい 1903~1995年)が中心となり編集された俳句誌である(創刊は昭和5年)。
玉麗は、中央俳壇とはほとんど関わりをもたずに、故郷にこだわって活動した俳人で、『青森県句集』は「自らを生んだふるさとを愛し、俳句を愛して、真に俳句と人生と郷土との一體の凝集の結果」生まれたと記している。創刊当初、当時活躍していた郷土の画家達が表紙や口絵を飾り、一層の郷土味を加えていた。
この小さな渓流の光景は、当館所蔵の純三作品群中にも含まれているが、制作年の記載がなく、いつ、何のために制作したのか詳細がわからなかった。今回、口絵としての存在を確認できたことで、純三が昭和期の本県を代表する俳人らと交流、依頼を受けてこの作品を制作したという背景を伺うことができた。
戦前の青森で、ふるさとを思う人々によって生まれた俳句誌とそこに添えられた口絵、一枚の作品として鑑賞する時とはまた別の、不思議な魅力がある。関わった人々それぞれの思いが込められた貴重な資料と思う。

写真:戦前の『青森県句集』(右から第3集、7集、6集。3集では表紙、6・7集の口絵は今純三 郷土館蔵)
※この記事は2017年11月16日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 大田原慶子

[コメント] 2017-12-09 14:19

No.129 ふるさとの物語 第32回 「薬研渓流の遊歩道」~森林鉄道の跡を活用~

ふるさとの物語 第32回 「薬研渓流の遊歩道」~森林鉄道の跡を活用~

むつ市大畑町の薬研渓流には1周6キロほどの遊歩道が整備されている。駐車場に車を置き、上流に進んで渓流を楽しんでいるとウグイ滝、大滝の美しい景色が目の前に現れてくる。更に進むと湯ノ股沢川沿いに無料の露天風呂「かっぱの湯」(時間で男女別なので要注意)、大畑川沿いにレストハウス「夫婦かっぱの湯」がある。そこから少し進み奥薬研橋を渡って右に曲がると「大畑ヒバ施業実験林」がある。1953年、全国29の産地のヒバの仲間が植栽され「見本林」「施業林」「保護林」と、それぞれの状態を見ることができる。
この遊歩道は「大畑森林鉄道」のあった場所をそのまま利用している。青森県にはかつて「津軽森林鉄道」「川内森林鉄道」などもあったが、線路が残っているのはここだけである。線路の上を歩いて進んでいくと隧道(ずいどう・トンネル)があり、昭和初期につるはし・ハンマーなどを使って掘られた手掘りの隧道の様子を見ることができる。運が良ければかわいいコウモリに会うこともできる。
 自然以外にも楽しめるとても素晴らしい場所だが、気になることがあった。それは、キク科の植物で環境省の特定外来生物になっている「オオハンゴンソウ」を見かけたことである。繁殖力が高く地下茎でも繁殖できるため、刈り取るだけでは根絶できないやっかいな植物。従来の生態系に大きな影響が出ないか心配なことではある。

写真:薬研渓流の遊歩道に残る線路とヒバ林
※この記事は2017年11月 9日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 豊田雅彦


ページの先頭へ戻る