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ふるさとの物語 第169回 海へ送る念仏丸     ~神仏とつながる精霊流し~

2020-08-01 14:31

ふるさとの物語 第169回 海へ送る念仏丸     ~神仏とつながる精霊流し~  日本列島に住む人々にとって広大な海は、幸をもたらす世界であり、神仏ともつながる異界でもあった。よって、お盆になると海へ精霊を流す行事がある。
 例えば、日本海沿岸の西津軽郡深浦町関集落では、毎年8月21日頃になると「念仏流し」だといって、ムラの大工さんなどに頼んで長さ3メートルほどの小さな帆船の模型「念仏丸」を作る。その帆に、各家の先祖代々の供養と長寿、家内安全を祈る文言等を墨書し、櫓や櫂の模型を乗せ、海難事後で亡くなった人々をかたどった紙の人形を乗せて、ムラの浄土宗浄安寺で祀る。そして寺から引き出して、リヤカーに載せて村内を回る。
 かつてこの行事は、旧暦7月20日の二十日盆の行事であり、若者達が競って大太鼓を叩いて回ったものだが、私が調査した2007年当時は、関自治会と浄念長寿老人クラブが中心となって、高齢の方々が小型の太鼓を打ち、鉦を叩いて村内を回っていた。やがて日が落ちて暗くなると、念仏丸に灯明をつけて、複数の灯籠とともに海へ流す。私が見学していたときは、海へ流された無人の念仏丸が、まるで本当の舟のように、するすると沖へ進んでいったので、驚いて見送った記憶がある。

※画像:ムラを回る念仏丸=深浦町関集落、2007年8月20日撮影
※この記事は2020年7月16日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 小山隆秀


ふるさとの物語 第168回 千畳敷         ~地震、火山活動の産物~

2020-08-01 14:30

ふるさとの物語 第168回 千畳敷         ~地震、火山活動の産物~  西海岸の景勝地のひとつとなっている深浦町の千畳敷には、その名が示すように緑色を帯びた岩石からなる平坦面が広がっている。この平坦面は、波によって平らに削られた海底が、江戸時代の1793年2月8日に発生した地震によって陸化したものである。
 千畳敷で見られる岩石は、2000万~1900万年前の火山活動によって噴出した火山灰や火山礫などが固まったもので、よく見ると白っぽい軽石や黒っぽい溶岩の破片、炭化した樹木の破片を観察することができる。岩石が緑色を帯びているのは、海水の影響によって変質してできた緑色の鉱物を含むためで、このような特徴をもつ岩石は東北地方の日本海側に広く分布している。
 千畳敷の周囲では、火山灰や火山礫が交互に重なった地層が、波によって削られてできたカブト岩などの奇岩も見られる。また、岩石の表面には、海水による影響で表面が少しずつ砕けてできた思われる網目状の構造や、コブ状に残った塊が不規則に並んだ構造なども見られる。千畳敷に出かけた際には、ぜひこのような地形や岩石に刻まれた自然の営みにも注目していただきたい。

※画像:地震や火山活動などで形成された深浦町の千畳敷
※この記事は2020年7月9日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸課長 島口 天


ふるさとの物語 第167回 ウミアイサ       ~秋去った頃に飛来~

2020-07-03 16:29

ふるさとの物語 第167回 ウミアイサ       ~秋去った頃に飛来~  ウミアイサは、カモの仲間に分類される鳥類である。長い体に、嘴が細いのが特徴である。最も特徴的なのは、後頭部になびくボサボサの冠羽である。この冠羽は雌雄に共通している。食性は動物食で、ウミアイサは潜水して餌を採食することが多いが、水面に浮いた状態で頭だけを水中に入れて泳ぎ回りながら魚類や甲殻類などの獲物を探す「シュノーケリング」のような行動も見せる。
 日本には、越冬のためにユーラシア大陸中北部等から飛来し、冬の時期を終えるとまた日本を旅立っていく。ウミアイサは、漢字で海秋沙と書く。「秋沙」は「アイサ」と読むが、語源は「アキサ」で、秋が去った頃にやってくるからこのような名前が付いているそうである。数羽から数十羽の群れで行動することが多い。掲載写真は雄のウミアイサである。

※画像:長い体に細いくちばしが特徴の「ウミアイサ」=県立郷土館所蔵
※この記事は2020年7月2日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究員 片山 卓思


ふるさとの物語 第166回 浜町桟橋        ~明治期青森の海の玄関口~

2020-07-03 16:28

ふるさとの物語 第166回 浜町桟橋        ~明治期青森の海の玄関口~  青森市本町の正覚寺前から郷土館の西側を抜けて北に向かう通りと、青森ベイブリッジにつながる青森港臨海道路が交わる付近に、かつて浜町桟橋があった。現在その一帯は埋め立てられ、セメント会社の工場や運送会社の倉庫が並んでいる。
 浜町桟橋は、明治初めより青函航路などで利用され、1876(明治9)、81(同14)年の明治天皇の東北・北海道巡幸の際には乗下船の場所にもなった。特に76年の巡幸の際に、青森港を出航して函館経由で横浜港に7月20日に到着したことを記念して、同日が1941(昭和16)年に「海の記念日」、のち96(平成8)年に国民の祝日「海の日」となっている(2003=平成15=年からは7月第3月曜日)。
 また、1930(昭和5)年には、桟橋一帯を貴重な史跡として保存・継承するため、聖徳(せいとく)公園が整備された。しかし、その後に公園は貨物引き込み線の敷設や臨海道路拡張などの影響を受けて移転を繰り返し、現在は新中央埠頭への入り口付近に位置している。園内には開園時に建てられた「景仰聖徳」の碑のほか、「海の記念日発祥の地」の碑なども整備されている。
埋め立てや公園の移転により、本来の桟橋跡地の面影はなくなったが、青森港の近代の歴史を見る上で欠かすことのできない場所である。

※画像:満州から凱旋した第八師団を迎える人々が、浜町桟橋(右側の海に突き出た部分)
や聖徳公園に集まっている(今純三作「青森県画譜」より「聖徳公園(第八師団凱
旋の日)」、1934年)
※この記事は2020年6月25日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究主査 滝本 敦


ふるさとの物語 第165回 八甲田の雪売り     ~夏の訪れ告げた「雪や」~

2020-07-03 16:28

ふるさとの物語 第165回 八甲田の雪売り     ~夏の訪れ告げた「雪や」~  雪や、雪や、と響く「雪売り」の声が、港町青森に夏の訪れを告げる。南にそびえる八甲田の山肌にまだ雪が残る6月。百年ほど前までは、市内浦町近在の人々がこの残雪を採り、市中で売り歩いたという。山の雪には、心身をすこやかに保ち、病や災いをのぞくあらたかな力が秘められていると考えられていた。人々は堅い雪の塊をほおばり、健康と安全をいのった。
 青森市の雪売りが途絶えたのは大正期である。幾度も危機はあった。1880(明治13)年、日銭を稼ぐこの小さな商いに5円もの営業税がかけられるとの噂が広まり、雪売りの姿がひととき、町から消えた。実際はデマだった。1899(明治32)年に赤痢が大流行(本県の患者約16,000名、うち約2,800名が死亡)すると、雪や氷の飲食が感染症のもとになるという啓発がより強くなされるようになった。翌年、氷雪の販売を取り締まる規則が定められたことは、直接的な打撃となった。そして大正期。「雪売り爺イのなつかしい姿は、何時の頃よりか[青森の]市中に見る事が出来なくなった。そしてあの山の精霊の籠る白雪の冷たさは二度と味はへぬ」ものとなってしまった(1925(大正14)年「東奥日報」より)。
 八甲田の雪売りにまつわる記録はほとんど残されていない。

※画像: 切り出された白い雪と八甲田の山並み(イメージ)令和2年6月上旬
※この記事は2020年6月18日付の東奥日報朝刊に掲載しました

投稿者:当館学芸主査 増田公寧