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[コメント] 2018-03-29 11:31

No.138 ふるさとの物語 第41回 版画「長寿林檎」~老いて息づく命の強さ~

ふるさとの物語 第41回 版画「長寿林檎」~老いて息づく命の強さ~

近くを岩木川が流れるつがる市柏桑野木田に、県の天然記念物に指定されている林檎の木がある。樹齢100年を優に超える、日本唯一の林檎の古木だ。青森市出身の版画家・加藤武夫(1930~2012年)は、一連の「長寿林檎樹」シリーズでその威容を描いた。
本作品で老樹は、まだ底冷えのする薄闇の中で身を休めるように佇んでいる。細切れの線で表された霧は水平に漂い、場の静けさが際立つ。背後では青の空気がうねり始め、夜明けは間近に迫っているようだ。それと呼応するように、木肌には渦巻き状の模様が現れる。幾度となく迎えた朝が老樹に訪れ、季節は春へと進んでいく。
1月13日(土)から2月12日(月・祝)まで常磐ふるさと資料館あすかで開催される連携展「加藤武夫版画展」では、他の「長寿林檎樹」も展示される。変わらず在り続ける老樹は、北国に息づく生命の強さを感じさせてくれるだろう。ぜひ足をお運びいただきたい。

写真:加藤武夫作の木版画「長寿林檎(青霧待春)」
※この記事は2018年1月11日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 和山大輔

[コメント] 2018-03-29 11:30

No.137 ふるさとの物語 第40回 美人川(青森市浪岡)~福姫と藤太の伝説~

ふるさとの物語 第40回 美人川(青森市浪岡)~福姫と藤太の伝説~

顔を洗うと美人に…。青森市浪岡にそんな伝説が残る「美人川」という川がある。平安時代の終わりごろ、京都のある公家に福姫という娘がいた。姫は器量が悪く、見合いすら求める者がなかった。父母は大変心配し易者に占ってもらうと、姫の夫となるべき人は遠く津軽の外ヶ浜にいるとのお告げがあった。姫はそれを信じ、一人津軽へ旅立つ。
そして足を踏み入れたところが行丘(なみおか)だった。姫は身なりを整えるため傍らの川で顔を洗い、拾った杉の葉をようじにしておはぐろをつけた。すると姫の顔はそれまでとはうって変わって世にも麗しい艶やかになっていた。その後、姫は藤太という炭焼きと出会い、めでたく結ばれたという。姫が顔を洗った川が今の美人川である。
あくまでも伝説であり、二人のその後については諸説あるようだが、美人川は今でもわずかながら水があり、周辺は公園として美しく整備されている。ただ、顔を洗うにはやや勇気が必要かもしれない。

写真:青森市浪岡にある美人川と福姫橋
※この記事は2018年1月 4日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太

[コメント] 2018-01-11 09:29

No.136 ふるさとの物語 第39回「堤川の水害」~河川と人々 共に生きる~

ふるさとの物語 第39回「堤川の水害」~河川と人々 共に生きる~

この写真は、昭和33(1958)年9月、青森市で諏訪神社やその前の道路が冠水した様子を国道4号側から撮影したものである。中央に神社の鳥居、その左側には当時道路沿いに立ち並んでいた長屋が写っており、住人が2階の窓から不安そうに外を眺めている。鳥居の奥には成田山青森寺、さらにその後方には当時の東北本線が通っていた堤川の鉄橋(現在は歩行者用の松園橋)を歩いて渡ろうとしている人々が写っている。
 この年の9月、青森市は台風21号の影響で17~18日に156ミリ、さらに直後の台風22号の影響で26~27日に93ミリの降水量を記録。堤川の氾濫などで2度とも市内約3500戸以上が浸水し、昭和10年の豪雨以来の大きな被害となった。
 堤川は、古くから人々の生活や産業と密接につながっていた。川べりでの洗濯、釣り、写生、子どもの遊びの他、近くの牧場の乳牛の放し飼いにも利用された。また、道路整備・宅地造成などに利用する砂利の採取・運搬が行われ、海産物の集積場となった河口付近は漁船がひしめき合い、川沿いには水産加工の工場も建設された。
幾度となく氾濫や橋の流出などの生活をおびやかす水害に遭いながらも、人々は河川と共に生活してきたのである。

写真:昭和33年に発生した諏訪神社一帯の水害(浜中達男氏撮影)
※この記事は2017年12月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 滝本 敦

[コメント] 2018-01-11 09:29

No.135 ふるさとの物語 第38回 「サルケ切りの道具」~断面整え、商品に加工~

ふるさとの物語 第38回 「サルケ切りの道具」~断面整え、商品に加工~

寒い日が続いている。かつて県内各地では、暖房や炊事に「サルケ」という燃料が使われていた。これは湿原に生える植物の遺体が長い年月をかけて堆積したものである。特に利用が盛んだった地域は、岩木川下流域の新田地帯。地下に豊富に埋蔵されるサルケは、庶民にとって格好の燃料だった。写真はサルケを掘る道具。これを地面に突き刺し、四角に切る。
サルケと一口に言っても、よく燃えるものとそうでないものがあり、品質に優劣があった。つがる市木造柴田地区で採れる「柴田サルケ」は一種のブランド品。自家消費にとどまらず、商品として近隣町村へ流通した。商品であれば、規格や見た目への配慮が必要になる。そこで、掘ったサルケを美しく整えるために、特注の「カマ」が使われた(写真手前)。断面を整えることが目的だから、普通のカマと違って曲面がない。商品生産地ならではの道具と用例だ。柴田地区に住む秋田谷喜幸さん(73)は若い頃、これらの道具を使う父親を手伝った。サルケを掘るのは、まだ肌寒い春先。湿地の水につかりながらの作業はつらく、おっくうだった。「サルケ切るず、イヤでや。中学校のどぎ、やらへられで」。そう語る秋田谷さんだが、父と使った道具を今も大切に保管している。

写真:サルケを切るテンズキと、専用のカマ(手前)=ともに秋田谷喜幸さん所蔵。右端の四角い物体はサルケ(泥炭)
※この記事は2017年12月21日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 増田公寧

[コメント] 2018-01-11 09:27

No.134 ふるさとの物語 第37回 「埖渡(ごみわたり)遺跡(南部町)」

ふるさとの物語 第37回 「埖渡(ごみわたり)遺跡(南部町)」

馬渕川の流域は、縄文時代晩期の精巧な土器や土偶が多数出土することで全国的に著名である。県立郷土館では、1993年から95年にかけて三戸町の松原(1)遺跡・杉沢遺跡、南部町の荒屋敷遺跡・埖渡遺跡で発掘調査を行い、97年に「馬淵川流域の遺跡調査報告書」を刊行した。
埖渡遺跡は、馬淵川本流から南へ約1・5キロの、旧埖渡小学校跡地と道路を挟んだ天満天神宮付近に広がっており、縄文時代後期から晩期の集落跡と考えられる。
発掘調査は、95年7月31日から同8月8日にかけて行われた。A3区とした約4×2㍍の調査坑では、地表下50センチで遺物の集中箇所が発見され、晩期前葉(約3千年前)の土器や石器、遮光器土偶などが出土した。この地点は壊れた生活用品や祭祀道具の捨て場だったのである。
土器のほとんどは破片となっていたが、写真のように完全な形の壷や注口土器も20点ほどある。土器の3割がきれいに飾られた精製土器で、それ以外は縄目だけが付けられた粗製土器だということも分かった。
晩期の土器というと華麗な漆塗り土器が思い浮かぶが、縄文人の暮らしを支えたものは日常の食料を煮炊きする粗製土器とよばれる鍋であった。

※この記事は2017年12月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋


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