あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

3 / 11 ページ ( 11 ~ 15|51件 )

ふるさとの物語 第194回 青函連絡船乗降客待合所      ~大正期、沖荷役が活躍~

2021-01-28 17:30

ふるさとの物語 第194回 青函連絡船乗降客待合所      ~大正期、沖荷役が活躍~  写真は、絵はがき「(青森名所)青函連絡船乗降客待合所」である。明治末期から大正期のものと考えられる。
 この頃、青森では連絡船を岸壁に接岸できなかった。そこで、写真にも見えるような小蒸気船やはしけが沖合に停泊した連絡船と桟橋をつなぐ役割を果たしていた。ただ、海が荒れると、乗客が連絡船までたどり着くまでに船酔いになることもあり、また、移乗の際に波にさらわれる危険を冒さなければならないこともあったという。まして、貨物は多くの作業員が荷物を担ぎ、はしけに乗って積みおろしをする沖荷役(おきにやく)であったので、大変な手間がかかった。
 やがて、北海道開拓の進行に伴い、この区間の旅客・貨物が増加すると、輸送力不足はより深刻なものとなる。1914(大正3)年からの第一次世界大戦の影響で、国内の船は利益の大きい外国貿易に向かい、貨物は鉄道輸送に振り替えられたため、北海道への貨物は青函連絡船に集中し、輸送力は逼迫した。当時連絡船を運営していた鉄道院は、借用した船や新造した木造貨物船で輸送力増強をはかるが、積み替えを要し、殊に青森側が昔ながらの沖荷役であったため、苦しい対応を強いられた。
 この不便の解消は、1925(大正14)年の貨車航送開始を待たなければならなかった。

※画像:絵はがき「(青森名所)青函連絡船乗降客待合所」から、青森駅構内の連絡船乗り場の様子。右手上の看板には「鉄道院青森駅」の文字が見える。鉄道院は、1908(明治41)年12月から1920(大正9)年5月の間に存在した。
※この記事は2021年1月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 佐藤良宣


ふるさとの物語 第193回 歳神と疫病の神     ~年越しに迎え、もてなす~

2021-01-28 17:29

ふるさとの物語 第193回 歳神と疫病の神     ~年越しに迎え、もてなす~  12月31日の年越しから1月1日の元旦にかけて、家々には歳神がやってくるという。
 例えば、年越しの夜にご馳走を食べる家々は、31日に歳神が来るという観念があった地域だと考えられる。反面、年越しの夜はソバなどで簡単に済ませ、元旦に特別なおせち料理を食べる家々は、歳神が元旦に来ると考えた地域だった可能性がある。そのような様々な正月も、近代以降のマスメディアや消費文化で混合、変容し、現在に至る。
 一方、密かに伝承されてきた変わった年越し行事もある。弘前市茂森新町の旧農では、年越しの夜に当主が玄関を開け「どうぞお入りください」と口上を述べて姿無き神を迎える。この神は床の間ではなく、座敷の隅で二つのお膳で振る舞うが、すぐに帰してしまう。つがる市芦沼の農家でも毎年、年越しの夜に、玄関に灯明と料理と座布団を用意し、外からやってくる名も無き神を家族みんなで拝む。どちらも、迎えた神を家の奥までは入れず、簡単なもてなしだけで、すぐに帰すのはなぜだろう。
 同様の行事は日本各地にもあり、迎える神は疱瘡神や風邪神であるとする地域も少なくない。つまり年の境目には、幸や実りをもたらす歳神だけではなく、伝染病をもたらす疫病の神々もくるという観念があったのではないか。(拙稿「来訪する神々-青森県内の事例報告-」)。恐ろしい伝染病と向き合ってきた先人達の祈りも反映されているのか。新年こそ善き歳神様をお迎えしたい。

※画像:年越しの夜、玄関から神を迎える家の主(弘前市茂森新町、2003年、筆者撮影)
※この記事は2020年12月31日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 小山隆秀


ふるさとの物語 第192回 九艘泊石        ~加工しやすく耐火性高い~

2021-01-28 17:27

ふるさとの物語 第192回 九艘泊石        ~加工しやすく耐火性高い~  青森市の青森ベイブリッジを東側に下りた道路沿いに、あまり目立たないがこげ茶色をした石造りの建物がある。青森製氷株式会社の製氷工場である。青森製氷の設立は大正9年(1920)で、この工場は設立時に建てられたという。昭和20年(1945)7月の青森空襲では、冷蔵庫以外の施設・設備は焼失したものの工場の石製外壁だけは残った。同社は、翌年に操業を再開し、建築から100年を迎えた製氷工場は、現在も氷を作り続けている。
 この石壁の石材の産地について、石材の特徴や青森製氷の記録、大正時代の文献を調べた結果、青森市の対岸、むつ市脇野沢の九艘泊であることがわかった。この石材は、九艘泊を含む脇野沢から川内地区にかけて分布する約800万年前の海底火山の噴出物が固まったもので、加工がしやすく耐火性に優れている。青森製氷の記録には、九艘泊石と記されていた。
 青森市内には、これ以外にもこの九艘泊石でできた蔵などの建造物があったようだが、現存を確認できているのは個人宅の石塀1か所のみである。ただ、九艘泊石の産地周辺にある複数の神社で、灯篭や社殿の土台、土留めなどに利用されていることを確認した。また、板柳町では、保存状態のよい石蔵が店舗に再利用されている。

※画像:九艘泊石でできている青森製氷㈱の製氷工場
※この記事は2020年12月24日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸課長 島口 天


ふるさとの物語 第191回 ウチムラサキ      ~「アオアサリ」名で食用~

2021-01-28 17:26

ふるさとの物語 第191回 ウチムラサキ      ~「アオアサリ」名で食用~  写真はウチムラサキの殻の内側でうすく紫色が残っているが、採取したばかりのウチムラサキは、より鮮明な紫色を帯びている。名前の由来は、殻の内面が濃い紫色になっていることによると思われる。稚貝の時、殻の内面は白色だが、成長するにともなって紫色に変化する。
 一般的にはオオアサリの名称で販売されており、食材としても親しまれている。北海道南部から九州にかけての太平洋側沿岸及び日本海沿岸に分布し、主に潮間帯から水深20mまでの磯混じりの砂泥底に生息する。京都では殻の内側の身がついている跡の形が天の橋立に似ていることからハシダテガイ、三浦半島では水管がタコの足のような色をしていることからタコガイとも呼ばれている。
 貝には、アワビやサザエのように内側が真珠光沢のもの、アカニシガイのように内側が赤い貝などがいる。貝の表面だけでなく、内側をみてみるのも興味深い。

※画像:ウチムラサキの殻の内側(県立郷土館で撮影、サイズは6センチ)
※この記事は2020年12月17日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究員 片山卓思


ふるさとの物語 第190回 青函連絡船 臨時トラック直送      ~災害時たびたび活躍~

2021-01-28 17:25

ふるさとの物語 第190回 青函連絡船 臨時トラック直送      ~災害時たびたび活躍~  青函連絡船の車両甲板から下船するトラックをとらえた写真。写された場所は、かつての青函連絡船青森桟橋(青森市)の第1岸壁で、その跡地は「ねぶたの家 ワ・ラッセ」と「A-FACTORY」の間に位置し、現在は人工海浜の整備が進められている。
 1966(昭和41)年7月下旬、集中豪雨により、当時の東北本線浅虫・野内間で地すべりによる土砂崩れが数回発生し、同月27日以降、東北本線が不通となった。その復旧工事が進む中、8月13日には、同じく集中豪雨による橋梁流出などにより奥羽本線も不通となり、本州・北海道間の物資の輸送は大打撃を受けた。
 そこで国鉄は、本来なら貨車を積載する青函連絡船の車両甲板に枕木を敷き詰め、臨時的に貨物トラックを載せて運ぶ臨時トラック直送を行った。使用されたのは洞爺丸事故の後に急きょ建造され、55(同30)年に就航した車両渡船の檜山丸(初代)である。
 66年8月18日から1日2往復の運航で開始され、料金についてはトラックの車長により計算し、運転手は2人まで無料とされた。実際の直送は東北本線が復旧した22日までの5日間行われ、9往復の運航でトラックは延べ209台輸送された。
 この時以外にも、青函連絡船は災害発生などに伴う青函航路外での臨時輸送でたびたび活躍し、観光面でも周遊運航を行うなど、通常の定期運航とは異なるさまざまな場面で活躍したのである。

※画像:貨車と同様、可動橋を使用して下船する貨物トラック 
    1966(昭和41)年8月 鎌田清衛氏撮影 
※この記事は2020年12月10日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館研究主査 滝本 敦