◆あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

2 / 4 ページ ( 6 ~ 10|18件 )

[コメント] 2017-06-30 09:27

No.103 ふるさとの物語 第9回「水虎大明神の神像」~子どもを水難から守る~

ふるさとの物語 第9回「水虎大明神の神像」~子どもを水難から守る~

弘前城北側の若党町(弘前市)は、かつて弘前藩士達が集住した地区であり、現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。岩木川が近く、近世当時は、夏のねぷた燈籠が城下町内を運行した後、最後に流される地域だった。すなわち人間の居住地と外の自然界との境目にあたる地域だったのではないか。
そのような境界には魔物が出るものだ。寛永年間(1624~1644)若党町の小川で、子どもが溺れて亡くなった。その子の肛門から、蛇のような形だが、一尺六、七寸(約52センチ)ほどの平らで大きな頭をもつ不可思議なモノが出てきたので、人々は「メドチであろう」と噂した(平尾魯仙「谷の響」)。メドチ、メドツとは、近世から現代にかけて青森県内各地で出没し、人々を脅かしてきた水の精または魔物である。
津軽平野部では、このような存在が近年まで出現した。同じ岩木川水系でつがる市を流れる古田川沿いでは、同種の存在が、スイコ様、水虎大明神として神格を得て、子どもたちを水難事故から守る神となっている。
※この記事は2017年6月1日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山隆秀

[コメント] 2017-06-30 09:29

No.104 ふるさとの物語 第10回「平安時代の水田跡」~洪水被害繰り返す~

ふるさとの物語 第10回「平安時代の水田跡」~洪水被害繰り返す~

写真は田舎館村前川遺跡で2007年に県内で初めて発見された平安時代の水田跡である。遺跡の500m先には田んぼアートのある村役場が、さらに2km先には垂柳遺跡がある。垂柳遺跡は弥生時代中期の水田跡が発見されたことで「米づくりが行われていた主な遺跡」として社会の教科書にも取り上げられている。
前川遺跡の平安時代の水田跡は、49枚見つかっている。一区画約10~30m×5~10mの長方形または亀甲形が多く、水田跡には当時の人々の足跡や稲株の跡が多数残っている。遺跡は岩木川の支流である浅瀬石川によって形成された扇状地上にある。水に恵まれ水田に適した立地である一方、幾度と洪水の被害を受けた痕跡も見つかっている。
この発見から、県内一の米ところである当地は、弥生時代から今日まで水害と闘いながら米づくりを継続していたことが明らかとなった。ここはいつの時代も米づくりの先進地だったのではないだろうか。
水田跡の表面を剥ぎ取った資料は、田舎館村埋蔵文化財センターで展示している。

※この記事は2017年6月8日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2017-06-30 09:30

No.105 ふるさとの物語 第11回 「岩木川最上流の村」~周囲に豊かな山の資源~

ふるさとの物語 第11回 「岩木川最上流の村」~周囲に豊かな山の資源~

正保2(1645)年に津軽信義が江戸幕府に提出したものの写しである陸奥国津軽郡之絵図(いわゆる正保国絵図)では、岩木川の最も川上の村として砂子瀬村が描かれ、源流付近には「河原澤金山」という文字がみえる。慶安2(1649)年の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」に「砂子瀬より川原沢金山迄三里、此間牛馬不通大難所、自是先大深山」と記された辺境であった。
その後、砂子瀬村の上流には河原平村がひらかれ、貞享4(1687)年の御検地水帳が残る。砂子瀬村、河原平村というのは津軽ダム建設に伴って移転した西目屋村砂子瀬地区、川原平地区の前身である。
川原平の西外れにあった川原平(1)遺跡の発掘調査では、17世紀末より新しい陶磁器が多く出土したので、河原平村の成立時期については古文書と考古資料がほぼ一致する。ただし、出土遺物には15世紀の珠洲(すず)(石川県)産のすり鉢もあるため、江戸時代より前にも川原平で暮らした人がいたのである。
津軽ダムに水没した範囲では、川原平から岩木川を1㌔ほど遡った大川添(3)遺跡で、平安時代の竪穴住居跡が5軒発見されたほか、縄文時代の大きな集落跡も複数見つかっている。山奥をへき地と考えてしまう私たちとは違い、街と田舎が分かれていない時代には、このような場所こそ豊かな山の資源が得られる住みやすい土地だったということなのだろう。

※この記事は2017年6月15日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋

[コメント] 2017-06-30 09:32

No.106 ふるさとの物語 第12回 「岩木氷」~暑さに備え健康願う~

ふるさとの物語 第12回 「岩木氷」~暑さに備え健康願う~

「お嶽のお雪ー しゃーっこい雪しゃっこい雪ー」。夏も近づくこの季節、弘前の市中に「雪売り」の声が響いた。売られたのは天然の氷雪。岩木山のふもと、旧岩木町百沢、葛原、八幡などの農家が冬場に「雪穴」と呼ぶ貯蔵場に蓄えたもので、「岩木氷」と呼ばれた。岩木山の霊液が濃縮されており、病気平癒や健康増進に効験がある-とされた。
もっとも、大正の頃までの話だというから、地元でも知る人は少ない。百沢で農業を営む昭和14年生まれの男性は、「弘前さ(雪を)持ってたづ話だば聞いだ」という。明治38年生まれの母から、幼いころに聞いた話だ。かつては神棚に、この「岩木氷」を供えた。氷の節供といわれる旧6月1日の風習である。
この日、氷に見立てた餅を食べる習俗もあった。この餅は、正月のお供えを若水に浸して軒下に吊し、半年のあいだ乾燥させたもの。いわゆる干餅である。「氷餅」ともいった。若水に浸した餅、すなわち清水を恵む神が召し上がった餅を共食することで、これから迎える暑い季節に向け、大きな力を蓄える-という習わしである。
※この記事は2017年6月22日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
※画像は「雪穴(氷室)」があった場所を示す三上國蔵さん
(6月上旬 旧岩木町で)

投稿者:学芸課 増田公寧

[コメント] 2017-06-30 09:33

No.107 ふるさとの物語 第13回 「藤崎町 福田宮堰神社」~水害の守り神として祭る~

ふるさとの物語 第13回 「藤崎町 福田宮堰神社」~水害の守り神として祭る~

藤崎町に堰八太郎左衛門安高を祀る福宮堰神社がある。江戸時代初期、藤崎の水田かんがいであった藤崎堰は、浅瀬石川の水を黒石の境松で取水していたが、急流で決壊することが頻繁にあった。そこで自らが人柱となり祈願することを決意し弘前藩に願い出たのが堰八村(現黒石市)の堰八太郎左衛門安高であった。藩は誠の心をもった者を失うわけにはいかないと当初許可を与えなかったが、その後も水害が繰り返され遂に許可を下す。農民や藩の検視役が見守る中、白衣を着た太郎左衛門は堰根の俵の上に横になり自ら腹に杭をあてる。皆溜息と嗚咽もらすだけであったが、境松の伊原孫左衛門が意を決して杭を打った。1609(慶長14)年のことであった。難工事だった堰根は完成し水害に見舞われることはなくなったという。現在、藤崎小学校の校歌には太郎左衛門のことが歌われ、物語は教材として扱われたり、子どもたちによって劇として演じられたりして後世に語り継がれている。

※この記事は2017年6月29日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太


ページの先頭へ戻る