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[コメント] 2018-01-11 09:29

No.136 ふるさとの物語 第39回「堤川の水害」~河川と人々 共に生きる~

ふるさとの物語 第39回「堤川の水害」~河川と人々 共に生きる~

この写真は、昭和33(1958)年9月、青森市で諏訪神社やその前の道路が冠水した様子を国道4号側から撮影したものである。中央に神社の鳥居、その左側には当時道路沿いに立ち並んでいた長屋が写っており、住人が2階の窓から不安そうに外を眺めている。鳥居の奥には成田山青森寺、さらにその後方には当時の東北本線が通っていた堤川の鉄橋(現在は歩行者用の松園橋)を歩いて渡ろうとしている人々が写っている。
 この年の9月、青森市は台風21号の影響で17~18日に156ミリ、さらに直後の台風22号の影響で26~27日に93ミリの降水量を記録。堤川の氾濫などで2度とも市内約3500戸以上が浸水し、昭和10年の豪雨以来の大きな被害となった。
 堤川は、古くから人々の生活や産業と密接につながっていた。川べりでの洗濯、釣り、写生、子どもの遊びの他、近くの牧場の乳牛の放し飼いにも利用された。また、道路整備・宅地造成などに利用する砂利の採取・運搬が行われ、海産物の集積場となった河口付近は漁船がひしめき合い、川沿いには水産加工の工場も建設された。
幾度となく氾濫や橋の流出などの生活をおびやかす水害に遭いながらも、人々は河川と共に生活してきたのである。

写真:昭和33年に発生した諏訪神社一帯の水害(浜中達男氏撮影)
※この記事は2017年12月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 滝本 敦

[コメント] 2018-01-11 09:29

No.135 ふるさとの物語 第38回 「サルケ切りの道具」~断面整え、商品に加工~

ふるさとの物語 第38回 「サルケ切りの道具」~断面整え、商品に加工~

寒い日が続いている。かつて県内各地では、暖房や炊事に「サルケ」という燃料が使われていた。これは湿原に生える植物の遺体が長い年月をかけて堆積したものである。特に利用が盛んだった地域は、岩木川下流域の新田地帯。地下に豊富に埋蔵されるサルケは、庶民にとって格好の燃料だった。写真はサルケを掘る道具。これを地面に突き刺し、四角に切る。
サルケと一口に言っても、よく燃えるものとそうでないものがあり、品質に優劣があった。つがる市木造柴田地区で採れる「柴田サルケ」は一種のブランド品。自家消費にとどまらず、商品として近隣町村へ流通した。商品であれば、規格や見た目への配慮が必要になる。そこで、掘ったサルケを美しく整えるために、特注の「カマ」が使われた(写真手前)。断面を整えることが目的だから、普通のカマと違って曲面がない。商品生産地ならではの道具と用例だ。柴田地区に住む秋田谷喜幸さん(73)は若い頃、これらの道具を使う父親を手伝った。サルケを掘るのは、まだ肌寒い春先。湿地の水につかりながらの作業はつらく、おっくうだった。「サルケ切るず、イヤでや。中学校のどぎ、やらへられで」。そう語る秋田谷さんだが、父と使った道具を今も大切に保管している。

写真:サルケを切るテンズキと、専用のカマ(手前)=ともに秋田谷喜幸さん所蔵。右端の四角い物体はサルケ(泥炭)
※この記事は2017年12月21日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 増田 公寧

[コメント] 2018-01-11 09:27

No.134 ふるさとの物語 第37回 「埖渡(ごみわたり)遺跡(南部町)」

ふるさとの物語 第37回 「埖渡(ごみわたり)遺跡(南部町)」

馬渕川の流域は、縄文時代晩期の精巧な土器や土偶が多数出土することで全国的に著名である。県立郷土館では、1993年から95年にかけて三戸町の松原(1)遺跡・杉沢遺跡、南部町の荒屋敷遺跡・埖渡遺跡で発掘調査を行い、97年に「馬淵川流域の遺跡調査報告書」を刊行した。
埖渡遺跡は、馬淵川本流から南へ約1・5キロの、旧埖渡小学校跡地と道路を挟んだ天満天神宮付近に広がっており、縄文時代後期から晩期の集落跡と考えられる。
発掘調査は、95年7月31日から同8月8日にかけて行われた。A3区とした約4×2㍍の調査坑では、地表下50センチで遺物の集中箇所が発見され、晩期前葉(約3千年前)の土器や石器、遮光器土偶などが出土した。この地点は壊れた生活用品や祭祀道具の捨て場だったのである。
土器のほとんどは破片となっていたが、写真のように完全な形の壷や注口土器も20点ほどある。土器の3割がきれいに飾られた精製土器で、それ以外は縄目だけが付けられた粗製土器だということも分かった。
晩期の土器というと華麗な漆塗り土器が思い浮かぶが、縄文人の暮らしを支えたものは日常の食料を煮炊きする粗製土器とよばれる鍋であった。

※この記事は2017年12月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋

[コメント] 2018-01-11 09:26

No.133 ふるさとの物語 第36回「平内町槻の木(つきのき)遺跡」(平内町)

ふるさとの物語 第36回「平内町槻の木(つきのき)遺跡」(平内町)

写真の資料は、かつて青森北高校考古学研究部が所蔵し、現在は青森県立郷土館にある縄文晩期前半の台付鉢(写真中央、台部欠損、口径11センチ、出土時の高さ9.5センチ)と壷である。壷は縄文が施されているもの(同後列左、高さ16センチ/同後列右、高さ12センチ)、赤色黒色漆塗りの小壷(同前列右、高さ8センチ)、無文のもの(同前列左、高さ5センチ)と変化に富む。
遺跡は小湊川沿いの段丘上に位置する。地名から下槻・小湊遺跡とも呼ばれていた。戦前から知られていた遺跡であり、発掘調査はこれまでに3回(1949、1951、1965年)行われている。
最初の調査は、青森北高校考古学研究部や平内町の町民有志によるもので、その後は慶應大学や平内町が調査を行った。いずれも小規模調査であるが、亀ヶ岡式土器や土偶・装飾品が大量に出土したことで、当時は亀ヶ岡文化期の大きな遺跡として注目されていた。
 しかし、これらの成果はこれまで公開される機会が少なかったため、資料の詳細や遺跡の全体像はよくわかっておらず、今後の研究課題となっている。
出土した資料は、平内町歴史民俗資料館に展示されており、特に大きな注口土器は必見である。

※この記事は2017年12月 7日付の東奥日報朝刊に掲載しました。


投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2017-12-09 14:22

No.132 ふるさとの物語 第35回 「年越し夜の儀礼」~名も姿もなき神拝む~

ふるさとの物語 第35回 「年越し夜の儀礼」~名も姿もなき神拝む~

12月31日の年越しの夜、津軽平野中央を流れる岩木川沿いの家々のなかには、玄関を開けて神々を招き入れ、料理をふるまう旧家がある。
 例えば、岩木川水系の寺沢川が流れる弘前市茂森新町の旧農では、年越しの夜に、当主が玄関を開けて正座し「どうぞお入りください」と姿無き山の神を迎える。この神は床の間までは招き入れず、座敷の隅で二つのお膳を振る舞う。そしてすぐに「足もとを大事にお帰りください」と玄関から外へ帰してしまう。
 同じような儀礼は、つがる市芦沼集落の農家でも伝承されている。毎年、年越しの日に家中の窓や戸を開けて、玄関に灯明と料理を載せたお膳と座布団を用意する。夕方、家族達がそこに正座し、外からやってくる姿も名も無き神を拝む。
このような年の境目に神々を迎える年中行事は、かつて日本各地でも伝承されていた。古い民間信仰を考える上で貴重な習俗である(拙論「旧弘前城下のイエの神々の年越し」)。この他にも青森市内でもかつて行っていた家があるという。県内各地でもしご存じの方がいれば情報をお寄せいただきたい。

写真:年越しの夜、玄関から神を迎える儀礼(つがる市芦沼、2006年、渡辺真路氏撮影)
※この記事は2017年9月 7日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山 隆秀


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