◆あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

1 / 11 ページ ( 1 ~ 5|51件 )

[コメント] 2018-03-29 11:39

No.149 ふるさとの物語 第52回 「県立郷土館旧館」~モダニズム建築の代表~

ふるさとの物語 第52回 「県立郷土館旧館」~モダニズム建築の代表~

県立郷土館の建物の一部が国の登録有形文化財に指定(2004年)されているのはご存じだろうか。当館旧館部分は昭和6年、第五十九銀行(現青森銀行)青森支店として建てられた。鉄筋コンクリート造で柱を建物全体のデザインに据えた本県を代表するモダニズム建築である。設計は現青森銀行記念館(弘前市)など県内の洋風建築を多く手がけた堀江佐吉の息子、堀江幸二。1945(昭和20)年青森空襲の際、市内の建物のほとんどが焼失する中、奇跡的に類焼を免れ原形をとどめた。その後建物は県へ寄贈され、1973(昭和48)年開館の県立郷土館の旧館特別展示室(大ホール)として使用され現在に至る。天井の装飾や階段のレリーフなど当時のまま残っており見どころの一つになっている。
 昨年8月からの休館を経て4月1日に再開する当館。改修工事は収蔵庫のみで展示室自体の大きな変更は無いが、新収蔵物やこれまで公開される機会が少なかった物などを今後随時展示していく。新たな発見があるはずだ。

写真:当館旧館特別展示室(大ホール)
※この記事は2018年3月29日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太

[コメント] 2018-03-29 11:38

No.147 ふるさとの物語 第50回 「津軽ダムに沈んだ遺跡」~縄文人の一大拠点~

ふるさとの物語 第50回 「津軽ダムに沈んだ遺跡」~縄文人の一大拠点~

本県で土器や石器が最も多く出土した遺跡はどこかと聞かれたら、4万箱以上(段ボール箱換算・以下同様)が出土した青森市の三内丸山遺跡と即答できる人も多いだろう。では、2番目はどこだろう。これまでは4882箱が出土した八戸市の畑内(はたない)遺跡であったが、西目屋村の川原平(かわらたい)(1)遺跡で7457箱、同村水上(みずがみ)(2)遺跡で6724箱が出土したため、以降は順位が入れ替わった。
川原平(1)遺跡と水上(2)遺跡は、一昨年に完成した津軽ダムの建設に伴って発掘された。一連の発掘調査は、2003年から15年にかけて17の遺跡で行われ、1万5千箱を超える遺物が出土した。そのほとんどは縄文時代の土器や石器で、岩木川の最上流部は縄文人たちの一大拠点であったといえよう。
ダム建設に先立つ発掘は遺跡全体におよんだため、当時の集落全体の姿を知ることができた。水上(2)遺跡では縄文時代中期(約4500年前)、川原平(1)遺跡では同晩期(約3000年前)の集落跡が姿を現した。遺跡はダムの完成とともに水没してしまったが、今年11月から開催予定の県立郷土館企画展では、白神山地に栄えた縄文文化の魅力を、多彩な出土遺物とともにお伝えしたいと思っている。

写真:川原平(1)遺跡から出土した人面付土器(所蔵・写真提供=県埋蔵文化財調査センター)
※この記事は2018年3月15日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋

[コメント] 2018-03-29 11:37

No.146 ふるさとの物語 第49回 版画誌「浅鉢形土器(風韻堂コレクション)」~シャープで精巧な文様~

ふるさとの物語 第49回 版画誌「浅鉢形土器(風韻堂コレクション)」~シャープで精巧な文様~

県立郷土館の風韻堂コレクションは、青森市の医師・故大高興氏が郷土史家である父佐藤公知氏とともに収集した考古資料である。開館を半年後に控えた1973(昭和48)年2月に寄贈され、その数は約1万1千点余り、うち64点が県重宝に指定されている。
コレクションの内訳は、亀ヶ岡遺跡(つがる市)出土品を中心とし、三内丸山遺跡(青森市)、是川中居遺跡(八戸市)、二ツ森貝塚(七戸町)などの資料も多数ある。
写真の浅鉢形土器は亀ヶ岡遺跡出土品(口径20.5cm高6.7cm)。内面は黒漆と赤漆の2色で雲形文が彩られている。一方、外面は半肉彫り手法で雲形文が描かれている。
両面とも、模様をつける「施文具」のはこびに滞りのない、シャープな切れ味が感じられる精巧な文様。考古資料としてだけでなく美術工芸品としても優品で、「風韻堂コレクションの顔」といえる資料の一つである。
長期休館中の県立郷土館では、4月1日の営業再開館に合わせ、風韻堂コレクションの展示替えに向けた準備作業の真っ最中。この土器は資料保護のため、近年非公開としていたが、営業再開後に期間限定で5年ぶりに公開する予定だ。

写真:「県重宝の浅鉢土器」
※この記事は2018年3月8日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 杉野森淳子

[コメント] 2018-03-29 11:36

No.145 ふるさとの物語 第48回 「オシラサマ」~信仰集める「家の神」~

ふるさとの物語 第48回 「オシラサマ」~信仰集める「家の神」~

オシラサマとは女性と馬をかたどった一対の神像である。東北地方各地で「家の神」として信仰されてきた。その祭日は旧暦3月16日だとされ、新暦2月から3月にかけて、県内の各ムラでは毎年「オシラサマを遊ばせる」といって、宿を決めて各家のオシラサマを持ち寄って集まりお祀りした。前日には、主婦が自分の家のオシラサマを背負って布施を集めて歩き、オシラサマに着せるオセンダク(布)を新調することもあった。
ムラの人々が集まった宿では、各家のオシラサマを並べて、イタコやカミサマなどの民間宗教者に祭文を唱えてもらう。その後、ムラの様々な神仏をおろしてもらい、今年一年の田畑が豊作かどうか、各家や人々に災いがないかどうか、占ってもらう。
以前、岩木川沿岸の農村清野袋集落の祭祀にお邪魔したとき「何月頃に悪い風邪がはやる」「何月に何色の車が事故を起こす気をつけよ」などというイタコによるお告げに、人々が真剣に耳を傾けられていたのが印象的だった。北国が春を迎える行事のひとつである。

写真:オシラサマの前で今年一年の占いをするイタコ(2006年弘前市清野袋、筆者撮影)
※この記事は2018年3月1日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 小山隆秀

[コメント] 2018-03-29 11:35

No.144 ふるさとの物語 第47回「青森市分譲住宅地鳥瞰図」~「練兵町」の面影伝える~

ふるさとの物語 第47回「青森市分譲住宅地鳥瞰図」~「練兵町」の面影伝える~

写真の図は、青森市堤橋から一キロ余り東に位置する、おおよそ現在の浪打一・二丁目にあたる地域を中心にして描いた、昭和初期の鳥瞰図である。元々、この場所は明治期以来、陸軍歩兵第五連隊の練兵場であったが、用地が手狭になり、当時の浜館村駒込(現在の戸山団地付近)に移転し、1928(昭和3)年6月からその跡地が住宅地として分譲された。この場所のかつての地名「練兵町」が「練兵場」に由来することは言うまでもない。
 図の左下には合浦公園が見える。その左端には、「招魂社(招魂堂)」が見える。ここでは、明治以来、戦没者を弔う招魂祭が行われていた。招魂堂は戦後廃止されたが、その建物は、1949(昭和24)年に諏訪神社の拝殿として移され、現在でも使用されている。
 そのほか、図中には、1930(昭和5)年開校の浪打小学校をはじめとして、師範学校と附属小学校、中学校、商業学校と、学校も数多く、佃グラウンドが見える。また、左下隅には浪打駅がある。このように練兵町は、周辺に教育・レクリエーション施設、交通機関に恵まれた住宅地として早くから整備された。現在でもここは閑静な住宅地である。

写真:「青森市分譲住宅地鳥瞰図」(1930~31年)
※この記事は2018年2月22日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 佐藤良宣


ページの先頭へ戻る