◆あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

1 / 14 ページ ( 1 ~ 5|69件 )

[コメント] 2018-08-05 13:25

No.167 ふるさとの物語 第70回「東岳」~石が語る大地の歴史~

ふるさとの物語 第70回「東岳」~石が語る大地の歴史~

青森市東部に位置する東岳(標高684m)は、登山道が整備され、山腹の展望所では青森市街を一望できる。
 東岳にはかつて、銅や鉄の鉱石、石灰岩を採掘する鉱山がいくつかあった。展望所がある山腹には、石灰岩を採掘した跡が広がる。石灰岩には鍾乳洞もあったそうで、採取された鍾乳石が当館に収蔵されている。詳細はわかっていないものの、この石灰岩は恐竜が繁栄していた中生代ジュラ紀に、はるか遠い南の海にあったサンゴ礁が、長い年月をかけて石になったものと考えられている。
 石灰岩の西隣りには花崗閃緑岩という、地下の深い場所でマグマがゆっくりと冷え固まった岩石が分布し、このマグマが石灰岩に接触することで銅や鉄が生み出された。これが起こったのは、ジュラ紀の後の白亜紀のことである。
 当館では、このような県内の岩石や大地の歴史について紹介する特別展「コロコロ・STONE‐あおもり石ものがたり‐」を9月6日より開催するので、ぜひご観覧いただきたい。
(学芸課副課長 島口 天)

写真:青森市宮田地区からみた東岳。山体中央やや右寄りの、斑に白く植生がない部分が石灰岩採石跡。

※この記事は2018年 8月2日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 島口 天

[コメント] 2018-08-05 13:24

No.166 ふるさとの物語 第69回「恐山」~願い受けとめる霊山~

ふるさとの物語 第69回「恐山」~願い受けとめる霊山~

下北の恐山は霊場としてその名が高く、全国的に知れわたっている。文化7(1810)年版行の縁起書によれば、平安時代に慈覚大師円仁による開山となっている。唐に留学中の円仁の夢に僧が現れ、諸病を治す温泉が流れ、周囲が地獄のような霊山があるから、そこに地蔵をまつり修行せよと告げる。円仁は遊行してその地を探し求め、とうとうたどりついたのが恐山であったという。
 江戸時代後期の旅人菅江真澄は数回恐山に参っていて、その目的の一つは湯治であったらしい。寛政5(1793)年の日記では旧暦6月2日に「山のうえの湯」(恐山温泉)に行き、そのまま同月24日の地蔵会(現在の恐山大祭)まで逗留している(「奥の浦々」)。
 庶民の様々な願いを受けとめる霊場恐山への参詣は現在も続いている。地元では豊作や海上安全のために春参り、秋参りを行ってきた。7月の恐山大祭では死者との交感や霊供養のために遠くからの参詣者も多い。東通村でうかがった話。「息子を亡くしたので大祭にお山に行った。境内の門のところで鳩がついてきて飛んで行った。息子が傍に来ていたと思い泣いた。お山はただ行くところでない。」

写真:恐山景観(三途川の橋から)

※この記事は2018年 7月26日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 古川 実

[コメント] 2018-08-05 13:23

No.165 ふるさとの物語 第68回「カワウ」~かつては天然記念物~

ふるさとの物語 第68回「カワウ」~かつては天然記念物~

私たちの身近に見られるカワウは、分類上はカツオドリ目ウ科ウ属に所属している。本県では一年中見られる留鳥で、大きさは全長で約80センチメートルにも及ぶ。体は光沢のある黒色だが、繁殖する時期になると、頭部に白い毛が生えてくる。
 海岸部から内陸の河川や湖沼の水辺で生活し、潜水して魚を補食。ウの仲間は一般に翼の油分が少なく、樹木などで翼を広げて乾かすような仕草をする。巣は樹木の先端部などに枯れ枝などで丸い皿状のねぐらを作る。群れで行動し、繁殖コロニーを形成する。
 文部省から1932年に発行された「天然記念物調査報告動物の部 第2号」の中に、31(昭和6)年調査の「猿賀の鵜・鷺繁殖地」が報告されている。カワウ、アオサギ、ゴイサギ3種類について営巣、捕食、神社との関係などが報告され「指定保存を図る価値がある」とまとめている。35(同10)年、平川市の猿賀神社境内一円が「猿賀ノ鵜及鷺蕃殖地」として天然記念物に指定されたが、その後、理由は定かでないが、カワウの繁殖コロニーが消滅。しばらくしてサギの生息変化もあり84(同59)年には指定も解除された.
 本県ではカワウについて「下北野鳥の会」が継続して調査・研究をしている。77(同52)年、むつ市大畑の海岸沿いで、下北半島で初めての繁殖コロニーが発見されたが、79(同54)年には消滅。その後新たに同市で発見された繁殖コロニーは現在も健在で観察が続けられている。
 古くから問題になっているのが、カワウによるふん害。集団で生息するため、大量のふんによって樹木の枯死が懸念される。近年、個体数が増加傾向にあり、環境への影響は少なくないと思われる。養殖魚に対する被害もあり、近年、鳥獣保護法に基づく狩猟鳥となった。私たちとカワウは古くからともに生きてきた長い歴史がある。この関係は今後とも変わることは無い。

写真:木に止まったカワウ(むつ市、対馬隆コレクション)

※この記事は2018年 7月19日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 山内 智

[コメント] 2018-08-05 13:22

No.164 ふるさとの物語 第67回「弘前城下 南溜池」~防御施設から景勝地に~

ふるさとの物語 第67回「弘前城下 南溜池」~防御施設から景勝地に~

当館蔵の「東奥津軽山里海観図」は、絵師の清白閑人が幕末の3年間ほど津軽の景勝地を巡りながら、各地の風景や風俗を描いた作品である。完成は1864(元治元)年2月とされる。岩木山、暗門の滝、弘前、鰺ケ沢、竜飛、十三、浅虫など、津軽の主要な景勝地が描かれ、ネプタ、子どもたちの遊ぶ姿、防寒防雪具、ニシン・カスペなどの魚類といった風俗画も含む、全132図の内容は多様である。
 写真の絵図「弘前南塘九池岩木初雪之図」は、「東奥津軽山里海観図」に岩木十八景の1つとして収められており、弘前城南方の現弘前大学医学部グラウンド(南塘町)付近に藩政期に存在した南溜池と、その遠景の岩木山を描いている。「鏡池」とも呼ばれた池の水面には初雪の岩木山が映り、奥には池の北方に位置した在府町や相良町の屋敷群、絵図左側の橋には「カラカ子バシ」{現在の唐金橋(からかねばし)}と記されている。同様の構図の幕末期の絵図は複数存在するが、「東奥津軽山里海観図」には南溜池の南東側を描いた絵図「大円寺塘朝桜」も収められ、池の東側堤上の満開の桜並木が描かれている。
 藩政初期に普請された南溜池は、城下町発展の過程で防御施設という軍事的要素が薄れ、城下の景勝の地、住民の娯楽・憩いの場になっていったとされる。南溜池を景勝地として描いたこれらの絵図の存在は、その性格の変化を表すものともいえる。

写真:「東奥津軽山里海観図」より「弘前南塘九池岩木初雪之図」(県立郷土館蔵)

※この記事は2018年 7月 5日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 滝本 敦

[コメント] 2018-08-05 13:20

No.163 ふるさとの物語 第66回「海陸の要衝 油川」(青森市)~都市の中核、青森湊に譲る~

ふるさとの物語 第66回「海陸の要衝 油川」(青森市)~都市の中核、青森湊に譲る~

近世都市弘前や青森ができる前から海陸交通の要衝に位置していた油川。中世から大浜と呼ばれ、近江や北陸出身の商人たちが移住し、繁栄していた。「九浦外町絵図」より「油川之図」(当館所蔵)からは、南北に縦貫する松前街道(上磯道)と羽州街道(岡町村からの道)が合流し、油川集落はこの合流地点付近で形成されていることがわかる。
江戸時代に入り弘前藩は、外ヶ浜における都市建設の中核を有力な油川ではなく、青森に決定し開港。青森湊の発展と近世的商人の育成、流通体制の構築のために旧来の油川の船商いを制限する。油川商人も激しい抵抗みせるもののその後繰り返された鎖港命令後は湊としての大きな役目は青森湊に移っていった。結果として青森湊の開港は油川衰退の一因と言えるのだが、その青森湊の開港奉行を務めた森山弥七郎の供養碑が油川の浄満寺にある。この地に住む人たちの寛容さと心意気を感じる。

※この記事は2018年 7月 5日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太


ページの先頭へ戻る