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[コメント] 2021-01-28 17:32

ふるさとの物語 第196回 花田陽悟作「潮」    ~多彩な青と白 迫力十分~

ふるさとの物語 第196回 花田陽悟作「潮」    ~多彩な青と白 迫力十分~

 何種類の青が使われているのだろう。海の青の移り変わりと、波の白の多彩さ。波しぶきの細やかな形状表現。画面の中で波を追って視線があちこち動きまわる。実に迫力があり、見応えのある作品である。この絵の技法は多色木版画である。何枚も版を彫り、色の重ね方やぼかしの効果も考えて、何度も刷り重ねて完成されたものである。作者の花田陽悟氏(1930年青森市生まれ、版画家)は、陸上競技で国体選手として活躍し、体育教師から青森高校の校長を務められるなど、長年にわたり本県の教育向上に尽力された。また、退任後は青森市教育長、同市助役など要職を歴任された。
 版画を始めたのは40才前後だという。この作品のように確かな技術による、美しい多色木版画を多数制作し、棟方志功が立ち上げた日本板画院を中心に作品の発表を続けてこられた。

※画像:花田陽悟作「潮」(多色木版画 紙 2002年、青森県立郷土館蔵)
※この記事は2021年1月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 中村理香

[コメント] 2021-01-28 17:31

ふるさとの物語 第195回 オオセイボウ      ~宝石のような青い輝き~

ふるさとの物語 第195回 オオセイボウ      ~宝石のような青い輝き~

 全身が宝石のように青く輝くオオセイボウというハチがいる(写真1)。名前のセイボウとは「青い蜂」の音読みで、仲間のセイボウ科は日本に50種近く生息している。オオセイボウはその中の最大種で、体長は12~20mm、青森県が分布の北限だ。
 このハチが県内で初めて見つかったのは、1937年(黒石市)のことであり、その後は西津軽の海岸域で2・3の記録があるだけだったので、青森県レッドデータブック(2020年版)では絶滅危惧種のDランクに指定されている。
 それが2020年の7月、青森市内で、しかも住宅地で見つかったというから驚いた。見つけたのは、同市幸畑にお住いのSさんである。庭にある植木鉢で、スズバチ(鈴蜂)の巣づくり(写真2)を観察していた時だという。スズバチは6月末から泥で巣を作り始め、巣は次第に大きくなっていく。7月末ごろ、もう成虫が出てくるかと待っていたら、なんと、スズバチではなく、見慣れぬ青光りする蜂? が巣に止まっていた、という。
 実は、オオセイボウは、スズバチなどの、泥で巣を作る「狩人蜂」の巣に寄生するハチなのである。宿主となるスズバチは、せっせと子どもの餌の尺取虫を厚め、巣に蓄え、卵を産んで封をする。そこにオオセイボウが飛んで来て穴をあけ産卵し、ふ化した幼虫は集められた尺取虫やスズバチの幼虫を食べるわけだ。まるで、カッコウの托卵のような子育てをしていることから、英語ではcuckoo wasps(カッコウ蜂)とも呼ばれているそうだ。
 オオセイボウのように、希少な昆虫でも、その暮らし方を知り、ターゲットを絞って粘り強く観察を続ければ、出会えるチャンスが生まれるかもしれない。スズバチは、県内に広く分布するから、彼らの泥の家を見つけたら、ぜひじっくり観察してみたらどうだろう。

※画像:写真右 「宝石蜂」「カッコウ蜂」とも呼ばれる「オオセイボウ」 写真左 巣作りをする「スズバチ」(Sさん撮影)
※この記事は2021年1月21日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 太田正文

[コメント] 2021-01-28 17:30

ふるさとの物語 第194回 青函連絡船乗降客待合所      ~大正期、沖荷役が活躍~

ふるさとの物語 第194回 青函連絡船乗降客待合所      ~大正期、沖荷役が活躍~

 写真は、絵はがき「(青森名所)青函連絡船乗降客待合所」である。明治末期から大正期のものと考えられる。
 この頃、青森では連絡船を岸壁に接岸できなかった。そこで、写真にも見えるような小蒸気船やはしけが沖合に停泊した連絡船と桟橋をつなぐ役割を果たしていた。ただ、海が荒れると、乗客が連絡船までたどり着くまでに船酔いになることもあり、また、移乗の際に波にさらわれる危険を冒さなければならないこともあったという。まして、貨物は多くの作業員が荷物を担ぎ、はしけに乗って積みおろしをする沖荷役(おきにやく)であったので、大変な手間がかかった。
 やがて、北海道開拓の進行に伴い、この区間の旅客・貨物が増加すると、輸送力不足はより深刻なものとなる。1914(大正3)年からの第一次世界大戦の影響で、国内の船は利益の大きい外国貿易に向かい、貨物は鉄道輸送に振り替えられたため、北海道への貨物は青函連絡船に集中し、輸送力は逼迫した。当時連絡船を運営していた鉄道院は、借用した船や新造した木造貨物船で輸送力増強をはかるが、積み替えを要し、殊に青森側が昔ながらの沖荷役であったため、苦しい対応を強いられた。
 この不便の解消は、1925(大正14)年の貨車航送開始を待たなければならなかった。

※画像:絵はがき「(青森名所)青函連絡船乗降客待合所」から、青森駅構内の連絡船乗り場の様子。右手上の看板には「鉄道院青森駅」の文字が見える。鉄道院は、1908(明治41)年12月から1920(大正9)年5月の間に存在した。
※この記事は2021年1月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 佐藤良宣

[コメント] 2021-01-28 17:29

ふるさとの物語 第193回 歳神と疫病の神     ~年越しに迎え、もてなす~

ふるさとの物語 第193回 歳神と疫病の神     ~年越しに迎え、もてなす~

 12月31日の年越しから1月1日の元旦にかけて、家々には歳神がやってくるという。
 例えば、年越しの夜にご馳走を食べる家々は、31日に歳神が来るという観念があった地域だと考えられる。反面、年越しの夜はソバなどで簡単に済ませ、元旦に特別なおせち料理を食べる家々は、歳神が元旦に来ると考えた地域だった可能性がある。そのような様々な正月も、近代以降のマスメディアや消費文化で混合、変容し、現在に至る。
 一方、密かに伝承されてきた変わった年越し行事もある。弘前市茂森新町の旧農では、年越しの夜に当主が玄関を開け「どうぞお入りください」と口上を述べて姿無き神を迎える。この神は床の間ではなく、座敷の隅で二つのお膳で振る舞うが、すぐに帰してしまう。つがる市芦沼の農家でも毎年、年越しの夜に、玄関に灯明と料理と座布団を用意し、外からやってくる名も無き神を家族みんなで拝む。どちらも、迎えた神を家の奥までは入れず、簡単なもてなしだけで、すぐに帰すのはなぜだろう。
 同様の行事は日本各地にもあり、迎える神は疱瘡神や風邪神であるとする地域も少なくない。つまり年の境目には、幸や実りをもたらす歳神だけではなく、伝染病をもたらす疫病の神々もくるという観念があったのではないか。(拙稿「来訪する神々-青森県内の事例報告-」)。恐ろしい伝染病と向き合ってきた先人達の祈りも反映されているのか。新年こそ善き歳神様をお迎えしたい。

※画像:年越しの夜、玄関から神を迎える家の主(弘前市茂森新町、2003年、筆者撮影)
※この記事は2020年12月31日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 小山隆秀

[コメント] 2021-01-28 17:27

ふるさとの物語 第192回 九艘泊石        ~加工しやすく耐火性高い~

ふるさとの物語 第192回 九艘泊石        ~加工しやすく耐火性高い~

 青森市の青森ベイブリッジを東側に下りた道路沿いに、あまり目立たないがこげ茶色をした石造りの建物がある。青森製氷株式会社の製氷工場である。青森製氷の設立は大正9年(1920)で、この工場は設立時に建てられたという。昭和20年(1945)7月の青森空襲では、冷蔵庫以外の施設・設備は焼失したものの工場の石製外壁だけは残った。同社は、翌年に操業を再開し、建築から100年を迎えた製氷工場は、現在も氷を作り続けている。
 この石壁の石材の産地について、石材の特徴や青森製氷の記録、大正時代の文献を調べた結果、青森市の対岸、むつ市脇野沢の九艘泊であることがわかった。この石材は、九艘泊を含む脇野沢から川内地区にかけて分布する約800万年前の海底火山の噴出物が固まったもので、加工がしやすく耐火性に優れている。青森製氷の記録には、九艘泊石と記されていた。
 青森市内には、これ以外にもこの九艘泊石でできた蔵などの建造物があったようだが、現存を確認できているのは個人宅の石塀1か所のみである。ただ、九艘泊石の産地周辺にある複数の神社で、灯篭や社殿の土台、土留めなどに利用されていることを確認した。また、板柳町では、保存状態のよい石蔵が店舗に再利用されている。

※画像:九艘泊石でできている青森製氷㈱の製氷工場
※この記事は2020年12月24日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸課長 島口 天


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