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[コメント] 2018-10-25 10:24

No.177 ふるさとの物語 第80回 堤橋とねぶたの写真 ~街並み、祭り 情景を伝える~

ふるさとの物語 第80回 堤橋とねぶたの写真 ~街並み、祭り 情景を伝える~

 橋の上で待機する1台のねぶた。その奥にも数台続いている。旧浪岡町(現青森市)出身の写真家で、県内各地の風景を写真に収めた鎌田清衛氏撮影による古い写真である。青森市の堤橋の西端から東方向を写したもので、写真の奥には雲がかかった東岳がそびえており、ねぶたの後ろには当時の青森消防署栄町分署の望楼も見える。ねぶたを眺める写真右の人だかりの奥に見える大きな「スポーツ」の文字は、堤橋東側で現在も営業を続けるスポーツ用品店「イシダスポーツ」の大きな看板である。
 堤橋は、1934(昭和9)年に木造から鉄筋コンクリート製の橋に生まれ変わり、さらに戦後の1954(同29)年に上流側に、1955(同30)年には下流側に、それぞれ歩行者専用の橋が追加されて三重の橋になった。その後、1965(同40)年からは車道拡幅のために橋同士をつなぎ合わせる工事などが行われ、堤川の改修に伴い1984(同59)年、現在の姿になった。
 「頼光と酒呑童子」というねぶたの題名、写真の一番手前で少女を連れている男性が持つちょうちんの文字「篠田~」(篠田町会の一部)から、この写真が撮影されたのはおそらく1961(昭和36)年と考えられる。当時はねぶたの合同運行のうち、8月6日のスタート場所は堤橋を東に渡った地点(諏訪神社前の国道)であった。
 1枚の写真から撮影当時の街並みや祭りの情景を知ることができ、非常に興味深い。

※写真:1961年に堤橋の西端から撮影されたとみられるねぶたの様子
(鎌田清衛氏撮影、青森県立郷土館蔵)
※この記事は2018年10月11日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 滝本 敦

[コメント] 2018-10-25 10:24

No.176 ふるさとの物語 第79回 弘前・座頭石の「露頭」~堆積物が語る大地殻変動~

ふるさとの物語 第79回 弘前・座頭石の「露頭」~堆積物が語る大地殻変動~

 弘前市の南に位置する座頭石には、付近を流れる大和沢川上流の尾神沢に面して高さ100mもの大岩石の露頭がある。ここの岩石は、チャートと呼ばれる非常に硬い堆積岩で、海に住むプランクトンの一種である放散虫の死骸が海底に降り積もってできたと考えられている。
海底の堆積物がこのような内陸部に存在するという事実を知れば、渓谷美だけでなくその地殻変動の壮大さにも畏敬の念を抱かずにはいられない。
座頭石の名前の由来は、岩石の頂上に琵琶を持ち僧の恰好をした「座頭」の姿に似た岩があったこととされている。今ではその面影を見ることはできないが、周囲には琵琶を抱いた弁天様を祀る神社や遊歩道、広場、墓地などがあり、市民の安らぎの場として親しまれている。

※写真:座頭石の露頭と弁天宮
※この記事は2018年10月4日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 福士道太

[コメント] 2018-10-25 10:23

No.175 ふるさとの物語 第78回「運ばれてきたヒスイ」~遺跡が示す「山の道」~

ふるさとの物語 第78回「運ばれてきたヒスイ」~遺跡が示す「山の道」~

 県内では、新潟県糸魚川産のヒスイが多く出土する。北前船による日本海交易のイメージと重なるためか、ヒスイは海路でもたらされたという考えが、広く受け入れられているようだ。
津軽海峡を越えた北海道でもヒスイは多く発見されるため、縄文人が船を使っていたことに間違いはないのだが、新潟県から本県までの移動も船だったと考えてよいのだろうか。
中部大学(愛知県春日井市)講師の長田友也さんによれば、新潟県元屋敷遺跡や山形県玉川遺跡、秋田県湯出野遺跡など縄文時代晩期の玉類が出土する遺跡は内陸部に点々と見つかっており、ヒスイの流通ルートを示唆するという。
津軽ダム建設に伴って発掘調査された西目屋村の遺跡でも、ヒスイは多量に出土した。また、現在の同村の人と秋田県の人が、正規の街道ではなく白神山地のを通って交流していたことが江戸時代の文献に書かれていると、弘前大学名誉教授の長谷川成一さんは述べている。民俗学の調査では、新潟県から本県にかけての山々は、マタギとよばれた猟師たちの活動範囲であったことも明らかになった。
目の前をさえぎるものがない海辺に立てば、海が外界への道であることは容易に分かる。一方で、閉ざされた山奥に見える場所もまた、古い時代には外界へ通じる拠点であったことに目を向ける必要がある。

※写真:西目屋村川原平(4)遺跡出土のヒスイ製首飾り(青森県埋蔵文化財調査センター蔵)
※この記事は2018年 9月27日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 岡本 洋

[コメント] 2018-10-25 10:22

No.174 ふるさとの物語 第77回 「湯屋のしるし」 ~人々を迎える赤白の旗~

ふるさとの物語 第77回 「湯屋のしるし」 ~人々を迎える赤白の旗~

 「小泊に着いた。(略)風呂は宿にない。銭湯に行くとやはり赤白に分けた旗がその標に立ててあった。三里半余の徒歩の疲れもこの風呂で元気とみに回復する」(渋沢敬三『津軽の旅』)。民具学の創始者である渋沢は、民具採集を兼ねて1931(昭和6)年、津軽半島を旅した。湯屋のしるしとして店先に掲げられた「赤白に分けた旗」が印象に残ったのか、小泊(中泊町小泊)のほか十三(五所川原市市浦)でも同じ旗を見て記している。『弘藩明治一統誌』によれば1875(明治8)年、弘前では湯屋の目印として赤白の小旗を立てる規則が定められたという。これに由来する地域的な遺風なのだろうか。
 いま、この旗を掲げる湯屋はなく、記憶する人も少ない。小泊で「浜の湯」を営む越野ミツエさん(85)は子どもの頃、湯屋の軒先で、端がほつれて切れ切れになった赤白の布が、かすかな風に揺れていたことを覚えている。内風呂がなかった時代。連日芋の子を洗うような盛況だった。現在は日に5~6人。どこから来るのか、9月になるとマグロを追って村に滞在する男性が現れ、常連さんがひとり増える。「いまの頃にまた来ますよお母さん。元気でやって下さいよ。風呂ないと大変だ」。そう言って、11月の末には去ってゆく。赤白の旗は、そんな旅の人や村の人を迎え見送ってきた湯屋のシンボルである。

※写真:湯屋の目印として使われた赤白の旗(郷土館蔵)
右上は「湯屋印」の図(青森県立図書館郷土双書『弘藩明治一統誌』より転載)
※この記事は2018年 9月20日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 増田公寧

[コメント] 2018-10-25 10:21

No.173 ふるさとの物語 第76回 今純三「浅虫風景 裸島と臨海実験所」~にぎわい懐かしく~

ふるさとの物語 第76回 今純三「浅虫風景 裸島と臨海実験所」~にぎわい懐かしく~

 青森市浅虫を象徴する裸島が左側に大きく描かれている。裸島は、むきだしの岩で、姿そのものを表すネーミウングも面白い。作者の今純三(1893~1944)は弘前市出身で、日本の銅版画の先駆者と言われている。青森県の自然や民俗、景観などを多く描いてきた。この作品は「青森県画譜」として発行されたものの中の1枚である。以下のように書かれた解説も、一部紹介する。「春の潮干狩り、夏の花火の催し物の時の人出はもちろん賑々しいが、平常でも遊覧の客が絶えることがない。わけてもこの裸島と臨海実験所のあたりは子ども連れの人々、また、若い男女の一組など、楽しそうに夢心地らしく、そぞろ歩きする場所である。画の右方に見える洋館は、言うまでもなく東北帝国大学理学部付属の臨海実験所で、二階建ては実験室、手前の型の屋根の建物は水族館である。」当時の浅虫の賑わいが感じられ、水族館として親しまれた「臨海実験所」が懐かしく思い出される。

※写真:今純三「浅虫風景 裸島と臨海実験所」
※この記事は2018年 9月13日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:学芸課 中村理香


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